×

[PR]この広告は3ヶ月以上更新がないため表示されています。
ホームページを更新後24時間以内に表示されなくなります。

イーリアス(ギリシャ神話)

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

プロローグ


ギリシャ北部の小国プティーア。王のペーレウスは神々から愛されていた。
王は女神テティスに恋をし、やっとの思いで妻にすることができた。
テティスは、髪の毛と髭が青い海神ネーレウスの娘である。王は女神と結婚した唯一の存在であった。
テッサリアのペーリオン山での二人の結婚式には、永遠の命を約束された二頭の馬と黄金の鎧兜を持って、すべての神々や女神達が参列し、盛大に行われた。
しかし、唯1人、仲たがいと争いの女神エリスだけは招かれなかった。
祝宴が最高潮になったとき、無視されたエリス女神が宴会場にやってきて、黄金のリンゴを投げ入れた。
そのリンゴには【いちばん美しいひとに】と書かれてあったので、そこに居合わせた女神達の争いのもとになり、その争いは長い間オリュムポス山でも続いたのだった。

ペーレウス王とテティス女神の間に息子が生まれ、アキレウスと名づけられた。アキレウスは大変勇気ある美しい青年に成長した。
プティーア国から遠く、オプース国のメノイティオス王にアキレウスより少し年長のパトロクロスという王子がいた。
パトロクロスは幼いころ友人を喧嘩によって過って殺してしまい、父王にすすめられてプティーア国に逃れてきていた。
パトロクロスはアキレウスと強い友情を結び、二人はいつも一緒にいた。
パトロクロスは青年になると、他のギリシャの国々の王子たちと同様、スパルタ国のチュンダレオース王の娘、絶世の美人として有名を馳せているヘレネーへの求婚者になった。
チュンダレオース王の邸にはそういった求婚者たちが大勢あつまり、ヘレネーの許婚者になろうと居座っていたので、王は困り果てていた。
娘がただ1人を選ぶと、選ばれなかった者たちが怒って自分達に災いをもたらすのではないかと王は恐れていたのだった。
さて、イタケー島の王で賢く勇気あるオデュッセウスはチュンダレオース王の困惑を悟り、解決策を申し出た。
ヘレネー自身に婿を選ばせ、選ばれなかった者たちはヘレネーの決定に従うことと、選ばれた夫が何か困ったことが起きたとき、選ばれなかった者たちは彼を助けることという誓いを立てさせれば良いと。
そしてオデュッセウス自身はヘレネーの従妹でヘレネーの美しさには及ばないが、やはり美人の誉れ高いペーネロペイアを妻に所望した。
すべての求婚者達が誓いを立てると、ヘネレーは求婚者たちのなかで一番身分の高いメネラーオスを選んだ。
メネラーオスはアガメムノーン王の弟で、チュンダレオース王が死ぬと後を継いでスパルタ国の王になった。
メネラーオスとヘレネーの結婚式が済み、かつての求婚者たちはそれぞれの国に帰っていった。

◇◇◇

その頃、オリュムポスの神々はいまだに黄金のリンゴをめぐって激しい争奪戦が続いていた。
主神ゼウスの妻へーラーと知恵と技術の女神アテーナーと愛と美の女神アプロディーテーの三女神であった。
他の神々ではこの争いを解決できなかったので、人間をひとり選んで、その者に決めさせることにした。
そこで女神達はトロイア王プリアモスの息子パリスに黄金のリンゴを渡し、三人のうちでどの女神が一番美しいかを決めさせた。
パリスはアプロディーテーが自分にくれたら世界中で一番美しい女と結婚させてやろうと約束したので、彼女にリンゴを渡した。
世界中で一番美しい女はヘレネーであった。
ヘレネーがスパルタ王の妻になって三年が過ぎていた。
スパルタ国に赴いたパリスはメネラーオス王に歓待されたが、そうして客になっている間に王妃の心を掴んでしまう。
もちろん女神アプロディーテーの力でもあった。
そうしてパリスが故郷トロイアに帰るとき、ヘレネーはパリスに付いていってしまったのだった。

◇◇◇

夫メネラーオスは兄であるミュケーナイ王アガメムノーンに訴えると、アガメムノーンは直ちにヘレネーの昔の求婚者たちに誓いを果たすように使いを出した。
そうしてかつての求婚者たちは他のギリシャ各地の王たちとともに大軍と軍艦を集結し、トロイアに遠征することとなった。
歓待してもらったその礼が、その家の主人の妻を盗み出すことだったという、恥知らずなパリスとその国に復讐するために―――

さて、プティーア国アキレウスの親友パトロクロスも求婚者のひとりだったのでギリシャ軍に加わることになった。
養い親のペーレウス王は、プティーア国の兵士ミュルミドーン人の指揮を、年老いた自分の代わりに息子のアキレウスにさせたいと思った。
しかし、女神である母のテティスは、息子アキレウスの運命を知っていた。
長命だが平凡な一生を送り死後誰にも忘れられてしまうか、短命だが栄光に満ち永久にその名を讃えられるかを、アキレウスは自ら選ばねばならないという運命を持っていたのだった。
母神テティスはその運命の選択から息子を遠ざけようと、アキレウスに女の着物を着せて秘密裏にスキューロス島のリュコメーデース王のもとへ送り、王の娘達の中に隠しておくように頼んでいた。
アキレウスはその間に王の娘のひとりデーイダメイアと恋に落ち、ネオプトレモスという息子が生まれていた。
しかし、どうあってもギリシャ軍には勇敢で戦士として誉れ高いミュルミドーン人たちが必要だった。
商人に身を代えたオデュッセウスはギリシャ中アキレウスを探して巡り歩き、リュコメーデース王の邸にやってきた。
王女や侍女たちに商品をお見せしたいと願い出て、オデュッセウスは宝石や美しい刺繍のある衣裳や帯や、アクセサリーを広げた。
それを見ると王女や侍女たちは歓声を上げて商人のまわりに集まって品定めが始まった。
オデュッセウスは彼女らの様子を注意深く観察していたが、どれがアキレウスの化けた姫なのか全くわからなかったが、商品の中にさりげなく一本の太刀を置いていたのだった。
しばらくしてオデュッセウスは従者に命じ、外で合戦の合図のような角笛を鳴らした。
王女たちは恐怖の叫びを上げて走り去るか、お互いを抱き合って恐れおののき泣いていたが、ただ1人、金色の髪をした人並み優れて美しく背が高い乙女が、さっと進み出ると、太刀を拾い上げ、いかにも手馴れた様子で構えた。
オデュッセウスは笑いながら「アキレウスさま」と呼びかけた。アキレウスもまたパトロクロスと共にトロイアに遠征したいと思っていたので、人違いだとは言わなかった。
アキレウスが故郷に帰ると父王プティーアはたいそう喜んだが、母神テティスは例の運命の選択をするべきときが来たと嘆き悲しんだ。
母は息子にその運命を話すと、息子はやはりためらうことなく短命だが栄光に満ちた生涯を送ることを選択したのだった。
「お前はトロイアから生きて故郷には戻れないのですよ」という母にアキレウスは本望だと応えた。
こうして総指揮官アガメムノーン王のもとにギリシャ軍は集結してトロイアに向けて出航した。
ギリシャ軍はトロイア・プリアモス王の王城を包囲しトロイアの海岸に野営を組んでいる。
しかしトロイア軍にも多くの同盟軍があって長い間一進一退の攻防が続いていた。
そして9年目がやってきた。


1.アガメムノーンとアキレウス

トロイア戦争が始まって9年目にギリシャ軍に大きな災難がふりかかってきた。
ギリシャ軍はトロイアから東南の海岸にあるリュルネーソス市を攻めた。その時の戦闘はギリシャ軍の中でももっとも優れた戦士といわれる、プティーア国ペーレウス王の息子若きアキレウスと彼の率いるミュルミドーン人たちがほとんど図べてを引き受けた戦闘で、彼等は山のような戦利品と多くの捕虜を手に入れた。
捕虜の中にプリーセイスという若い女がいた。アキレウスは戦闘が終わり自分の分け前として彼女を奴隷にした。
そしてまもなく、リュルネーソスの近く、テーベーの街もギリシャ軍の手に堕ちた。
多くの戦利品は例によってミューケナイ王総指揮官のアガメムノーンのものとなった。
アガメムノーンが自分の奴隷として選んだ女の中にクリューセーイスという若く美しい乙女がいた。
彼女は芸術と学問の神アポローンの神官で社会的地位も高く、裕福なクリュセースの娘だった。
娘を奪い去られて悲しみに打ちひしがれた父は金銀財宝を山と積んで廃墟となったテーベーの街を船出した。
身代金を払って娘を貰い受けてこようというのだった。

◇◇◇

トロイアの海岸には2つの岬に挟まれた平らな砂浜があって、ギリシャ軍の軍船が並んでいた。
一番西の端にはミュルミドーン人の50隻、一番東端にはサラミース島からのサラモーン王の息子アイアースの船団があって、他の船団はこの二つの船団に挟まれて3列に並んでいる。
海岸とトロイアの城市のあいだには肥沃な平原がひろがり、その中を貫いてスカマンドロス川がうねっている。
船団の第一列はプローテシラーオス王がピュラケーから率いてきた40隻が並び、今は王弟の指揮によっていた。
第二列はアイアースがロクリスから率いてきた40隻が、そして海に一番近い第三列には最高指揮官アガメムノーンの船団がならんでいた。それは100隻あまりあり、ギリシャ軍最大の船団だった。
その隣にはアガメムノーンの弟であり、ヘレネーの夫であるメネラーオス王がスパルタから率いてきた60隻が、そして裕福なピュロス王のネストールの船団、年若く勇敢なディオメーデース王が親友のステネロスとともに80隻、そして真ん中にはギリシャの西にある小さな島イタケーの王オデュッセウスの12隻が並んでいた。
オデュッセウスは小さな島国の王だったが、知略にとみ、弁舌に優れていたので、軍略家として尊敬を受けていた。
軍船は竜骨が腐らないように砂浜に引き上げられていた。
それぞれの船団は自分の後方に野営陣地をつくり、兵舎や納屋、馬屋を造り、それを全て杭の柵で囲っていた。
野営地のちょうど中ほど、オデュッセウスの船団の前あたりに、広場があった。
この広場では、王や王子たち指揮官が集まって軍議を重ねたり、祭壇に生贄を捧げたりする場所だった。すべての指揮官達は全員を招集する権利を持っていた。

◇◇◇

クリューセースはこの広場に案内されると、なみいるギリシャ軍の指揮官たちの前に立たされた。
年老いたアポローン神殿の神官は、神殿から携えてきた神聖な花輪と笏を手にして、自分が用意してきた身代金を差し出し嘆願した。
「ギリシャの王と王子たちよ、どうぞこの老いた父の願いを聞き入れてくださるまいか。娘を私に返してください。そうすればアポローンの神もオリュムポスの神々もあなたがたに好意を寄せあなたがたに勝利をお与えくださるでしょう」
居並んだ指揮官達は老神官を哀れに思い、神官の言葉は尊ばれねばならない、身代金を受け取って、娘を父に返してやるべきだと口々に言った。
しかし、彼女を自分の奴隷としたアガメムノーンだけは「あの娘は自分の槍で勝ち取ったものだ。手放すわけにはいかぬ。トロイア陥落までここで一緒に暮らさせ、そのあとはミューケナイに連れ帰るのだ。さぁ、老人、分かったらもう帰れ。そして二度と顔を出すな。アポローンの花輪や笏を手にしてきたところで、何の効き目はあるものか!」そういうと高らかに嘲笑った。
指揮官たちは神を畏れぬアガメムノーンの言質に怯えながらも、ギリシャ軍の最高指揮官である彼の意思に逆らう者は誰一人としていなかった。
年老いた神官は恐ろしくなり、アガメムノーンの嘲笑を背にして渚を逃げ帰った。
「おお、アポローンの神よ。私は長い間あなたにお使えしてきました。私のしてきたことがお気に召しましたならば、どうぞ私の願いを聞き入れてください。ギリシャ軍からわが娘を取り返し、そしてギリシャ人たちに復讐を!」
オリュムポスに居ますアポローンの神はクリュセースの祈りを聞き、怒りを持った。
白銀の弓と矢筒を取り、空を横切り海を越えるとたちまちのうちにトロイアの海岸に降り立った。
アポローン神はギリシャ軍の陣営に悪疫の矢羽を打ち込んだのだった。
悪疫は9日の間ギリシャ軍の陣営を荒れ狂い、次々に兵士や軍馬が倒れていった。

◇◇◇

10日目にアキレウスが指揮官達を広場に招集した。
「みなさん、この疫病は確かに神々のうちの誰かがわれわれを怒っていらっしゃるのだ。どなたが怒っていらっしゃるのかを知り、一刻も早く生贄を捧げようではないか。そうしないと、トロイアを陥れるどころか、われわれはこの海辺で死に絶え、ヘレネーを盗み取られた仇を討つどころではなくなるだろう」
アキレウスが腰を下ろすと、預言者のカルカースが立ち上がった。
「アキレウスよ、私はどの神が何故怒っていらっしゃるのか知っています。しかし、私がどんなことを口にしても、必ず私を守ってくださると約束してください。というのは、これから私が申し上げることはギリシャ軍の中でもっとも偉いかたを怒らせると思うからです。」
アキレウスは「恐れることはない。私が生きている限り、お前に危害を加えさせはしないない。ギリシャ軍の中で一番偉いのは自分であるとアガメムノーン王が言うのを聞いたことがあるが、たとえアガメムノーンであってもお前に危害を加えさせない。私が約束する」といった。
「では・・・」と安心したカルカースが言葉を続けた。「この悪疫がギリシャ軍に取り付いたのはアポローンのせいなのです。私たちがかの神に生贄を捧げなかったせいなどではなく、過日、アガメムノーン王がアポローンの神官であるクリューセースの願いを聞き入れなかったせいなのです。身代金を受け取り、すすんであの娘を父親の元へ返さない限り、アポローンの怒りは解けないでしょう」
それを聞いたアガメムノーンは憮然として言った。
「悪疫がはびこったのはわしの所為というのか。それを逃れる手立てはわしの手のなかにしかないというのか。いいだろう、あの娘を返してやろう。オデュッセウス、あの娘をテーベーまで送っていけ」
居並ぶ指揮官たちからはよくぞ言ったという賛成の声が聞こえてきたが、アガメムノーンは憤懣やるかたなく辺りを見回した。
彼のやったことは間違っていて、それを皆の前で馬鹿にされたというわけだ。
しかし、アガメムノーンは自分だけが損をするつもりはなく、今日の集まりを召集して自分に恥をかかせた張本人が友人と安堵の笑みを浮かべているのを目に留めた。
「わしはあの娘を手放したくはなかったのだ。わしはギリシャの最高指揮官だし、そのわしの戦利品だけが取られるというのはおかしな話だ。クルーセーイスはしょうがないので返してやるが、その代わりのものを誰かから分けてもらうとする。そうだな・・・アキレウスのものがいい」
「なんですって?」アキレウスはかっとなって立ち上がった。
「あなたは確かにわれわれの最高指揮官だ。だが、いいか、私自身はトロイア人となにひとつ争いごとがあるわけじゃない。私がトロイアに遠征してきたのは専らあなたの弟の争いごとのためだ。第一私はヘレネーに求婚していたわけじゃないから、メネラーオス王助けなければならぬという誓いなどしていないんだ。その私の戦利品をよこせという前に、そこのところを考えてもらいたい。それに、私たちがあの市を陥れたときに手に入れた戦利品など、あなたが手に入れた山のような戦利品tにくらべたらなんだっていうのだ?私は自分が優れた戦士だと自負しているし、父から預かっている兵士たちも勇敢だから、戦闘が続く限りいつだって人一倍の戦闘を引き受けている。しかし、それが終わって戦利品をわけるとき、あなたが最初に選んだ後の残り物で満足しなけりゃならないんだ。この戦闘で私はこれまでに得たものはわずかの金銀と奴隷だけだ。それも、身代金んと引き換えに捕虜は返してやっているので、あなたと違って私の奴隷の数はたかが知れたものだ。すべての神々に誓って言うが、私はあなたがミューケナイに持って帰る財宝を手に入れてやるために馬鹿にされながらこの地に留まっているつもりはない!」アキレウスは怒りのままに一気に喋ると肩で息を継いだ。
するとアガメムノーンは鼻先で笑いながら言った。
「ふん、言いたいことはそれだけか、アキレウス。帰りたいのなら帰るがいい。お前などいなくてもわれわれはちゃんとやっていけるのだ。そうとも、お前は確かに勇敢ですぐれた戦士だが、傲慢で短気でかんしゃく玉をおさえることもできない若造だ。この軍でいなくなって一番ありがたいのはお前だよ、さっさと帰りたまえ。しかし、すくなくとも戦利品は此処へ残していけ。わしはアポローンの意志によりクリューセーイスを手放した。お前はブリーセーイスを手放していけ、それは最高指揮官のわしの意志なのだ。なぜならわしは、お前の父ペーレウスよりも偉大な王だからだ」
アキレウスは怒りでかっとなり暫くの間口も利けず、身動きできなかった。
そして憤りのあまり刀の銀の柄に手をかけると、アガメムノーンをその場で刺し殺そうと身構えたが、そのときオリュムポスの山頂で見守っていた知恵の女神アテーナーが姿を隠してアキレウスの背後に舞い降り、彼の長い金の神をつかんで押しとどめた。
アキレウスは自分をとどめた相手が神々の1人に違いないと悟り、刀を納めて言った。
「アガメムノーン王よ、あなたよりも勇敢な人間に向かってそんな口をきくところを見ると、あなたの頭は酒に酔っているに違いない。貴方が言った言葉によって私と、私の父の部下の協力を得られなくなったと分かればきっと後悔するだろう。われわれは、もうこれから、あなたのためにトロイア軍と戦うことは絶対にしない」憤りが収まらないアキレウスはそう言い放つと、パトロクロスの傍らに腰をおろした。
アガメムノーンはさらに嘲ろうと腰を浮かした時、長老のネストールが立ち上がった。
「二人とも恥を知りなさい!お前達の言い争いをトロイアのプリアモス王とその息子達が耳にしたら、どんなにか喜ぶことだろう!アガメムノーン王よ、アキレウスが手に入れた娘を横取りしてはならない。アキレウスはお前も言ったように立派な戦士で、トロイア人もみな彼を恐れているではないのか?アキレウスよ、お前はまだ大変若い。お前がこれから治めようとしている領土よりももっと大きな国の大王に対してはもっと敬意を示さねばならぬものなのだ」
それを聞くとアガメムノーンは
「ネストール老よ、全くその通りだ。しかし、アキレウスは傲慢でわしの権威を愚弄してばかりいるし、短気をおこしてすぐカッとする。もうわしはうんざりなのだよ」というのに、
アキレウスが「アガメムノーンよ、貴方の権威など私はもう絶対認めない。そんなにブリーセーイスが欲しいのなら何時でも連れて行くがいい。私が彼女を選んだのは貴方の許しがあってのことだ。貴方が与えたものは貴方がも持っていくがいい。しかし、私がプティーアから持ってきた品物に指一本でも触れてみろ、そのとき私の刀の先に飛び散るのはトロイア人の血ではないからな。パトロクロス、行くぞ!」と怒鳴り、外套の裾を翻すとアガメムノーンへは一瞥もくれず会議場から友を連れて出て行ってしまった。

◇◇◇

アガメムノーンの命令で一隻の舟が用意され、クリューセーイスはオデュッセウスによってテーベーの街の父の元に送りかえらせた。
さらにギリシャ人たちがアポローンに生贄を捧げたので、その怒りは鎮められた。
アガメムノーンは二人の伝令を呼び寄せると、「アキレウスのところへ行って、捕虜のブリーセーイスを連れて来い。もしアキレウスが抵抗するようだったらわしに言え。その時はわしが自ら出向こう。そういうことになれば、いかに馬鹿なアキレウスにも自分の傲慢で無礼な態度を後悔させてやれるというものだ」と命令した。
伝令たちはこの仕事が嫌でたまらなかったが、アキレウスの小屋に近づくと小屋の前にアキレウス自身が腰を降ろしているのが目に入った。
いかにも眉をひそめて怒った顔をしているので、二人は顔を見合わせて何も言えずにいた。
「伝令よ、来たか・・・私が怒っているのはお前達にではないよ。アガメムノーンめを怒っているのだ。しかし、お前達には私の誓いの証人になってもらえるだろう。このトロイアとの戦争で、アガメムノーンのためには絶対戦わないという誓いのだ」そういうとアキレウスはパトロクロスに捕虜のブリーセーイスを伝令に引き渡すように言った。
「パトロクロスさま、私は行きたくありません。貴方は私に約束してくださったではありませぬか?アキレウスさまはまだ妻がいないから、戦争が終わって故郷に帰ったとき、私を妻にしてくださるだろうと」
ブリーセイスはさめざめと涙を流してアキレウスの友の手にすがりついた。
彼女は伝令たちに引き立てられて、涙に濡れた目で絶えず後ろを振り返りながら、海辺をアガメムノーンの船団へ去っていった。
アキレウスは悔し涙にくれながら、ただ1人で渚を歩いていた。
「母上・・・」
海の女神テティスは海の底深い父ネーレウスの館で暮らしていたが、息子の祈りを聞きつけて霞のように海面に立ち上がり、水際にたたずむ息子の頭に手を置いた。
「母上・・・私はこの遠征の前にあなたから私の運命を聞かされました。私が選んだ短い生涯のなかで、アガメムノーンのようなつまらぬ男からの辱めを我慢しなければならないのなら、私の選択に何の意味があったというのでしょう?母上、私はこの戦いに生き残れないのでしょう?私の短い人生はトロイアの城壁の前で終わるのです。そうならば、母上、私に約束された栄光はいったいどこにあるのです?」
テティス女神は息子の金の神をやさしく撫でると言った。
「アキレウス・・・わたくしは本当はお前をトロイア遠征などしてもらいたくなかったのです。愛する息子を短命で終わらせることを喜ぶ母がどこにいるというのです?ああ、でも私はこのトロイアの地でお前が不朽の名声を勝ち取り、勇敢な人々の中でいつまでも生き残るようにしてあげましょう。これから主神ゼウスの元へ行き、じきじきにそのことを頼んでみます」そういうと母神はかき消すようにいなくなり、渚にはアキレウスがただ1人で残された。

◇◇◇

女神テティスはたいまちのうちにオリュムポス山頂へのぼっていくと、神々と人間の主神ゼウスが高い玉座に座っていた。
女神はゼウス神の前に跪くと、その膝にすがって懇願した。
「父なるゼウス。昔あらゆる神々があなたに反抗した時に、私だけがあなたのお味方をいたしましたわ。あのときの私の忠誠をお忘れでないのでしたら、私の願いをかなえてくださいませ。息子アキレウスのために・・・・。アキレウスはアガメムノーンと仲違いいたしました。そこで、息子が戦いから身を引いている間は、ギリシャ軍の王や王子が愚かな最高指揮官のアガメムノーンの行為を悔やむように、どうそトロイア軍に勝利をお与え続けてくださいませ」
ゼウスはその結果がどうなることになるのかを思い悩んでいたが、やがて応えて言った。
「わが忠誠なる娘テティスよ。本当はお前の願いを叶えてやりたくはない。叶えることによって、これから先もトロイア軍、ギリシャ軍双方から沢山の優れた勇敢な兵士たちを死者の国に送らねばならないからだ。また、お前の息子のために、オリュムポスの神々もお互いに争うことになるだろう。しかし・・・お前はよく私の為に尽くしてくれた。どんな結果になろうとも、お前の願いを叶えてやることにしよう」
ゼウスはなにもかも承知したというように、頷いた。

◆◆◆


2.パリスとメネラーオス

それからおよそ12日たった夜のこと、ゼウスはテティスへの約束を果たすためアガメムソーンに偽りの夢を見させた。ギリシャ軍はまもなく大勝利を得るだろうという夢だった。
その夢を見た翌朝、アガメムノーンはギリシャ軍の王や王子たちにむかって、味方の勝利はもはや疑いないので長かったこの戦争の終わりが目前であると語り、最後の猛攻撃をしかける準備をしろと全軍に命じた。
 海辺の野営陣地からギリシャ軍は津波のように平原のトロイア軍へ押し寄せていった。
陣地に残っていたのは奴隷や捕虜たち、傷病兵、それにアキレウスに従ってきたプティーアの兵士たちだけだった。アキレウスとパトロクロスが率いるミュルミドーン人の兵士たちは、総指揮官アガメムノーンと仲たがいして以来、戦場に赴くことはなかったのだ。

トロイア軍は油断なくギリシャ軍の攻撃に備えていた。
プリアモス王とヘカペー王妃の間にできたトロイアきっての勇猛果敢な王子ヘクトールの指揮するトロイア軍と同盟軍は、ギリシャ軍を迎え撃つべく整列したとき、トロイア軍のなかから、ひときわ美しいひとりの王子が軽率にも躍り出た。
ヘクトールの実弟、かのパリスである。
彼は日ごろ戦場で敵と剣を交える危険を冒すことなく、安全な遠くから相手を射殺すことのできる弓しか手にしたことがなかったにもかかわらず、その危険に自ら進み出たのだ。
二本の槍をふりまわし、自分と一騎打ちする勇者がいるのかと大声で呼ばわった。
それをみた妻を盗み取られたアガメムノーンの実弟メネラーオスは、これで仇が取れるとすっかり喜んで、パリスの挑戦にこたえようと戦車からとびおりた。
ところがパリスは怒り心頭のメネラーオスの様子にすっかり胆を抜かれ、自分の軽率な行動を悔やんで、あわててトロイア軍の隊列に隠れてしまった。
トロイア軍の兵士達は王子パリスの臆病なのに呆れ、兄のヘクトールは怒って弟のそばに歩み寄った。
「意気地なしめが!お前は何度われわれに恥をかかせる気だ?卑怯者で他人の女房を寝取ってばかりいるお前なんざ、スパルタへ出掛ける前に死んでしまえばよかったんだ。お前の綺麗な顔だとか、女を手管にとることとか、巻き毛だとか竪琴を弾く腕前だとか、そんなものが戦場でなんの役に立つ?!戦いを挑むなんて、お前も馬鹿な真似をしたもんだが、メネラーオスはお前の挑戦を受けてたったんだ。お前が酷いめにあわせた男と、思う存分やりあえ!」
パリスは兄の怒号に怯えながら真っ青な顔をして言った。「どうしてもやれというならやるよ。そして勝者がヘレネーを正式に自分のものにする権利を手に出来るというなら。そして戦争も終わりにするというなら」
弟の思い切った言葉に驚きつつ嬉しく感じた兄ヘクトールは、ギリシャ軍の前にでていくと、ギリシャ軍とトロイア軍の双方に向かって言った。
「ここに、われわれの間に戦争を引き起こした張本人のプリアモス王の息子パリスがいるが、彼の申し出を聞いてやってくれ。パリスはヘレネー王妃を正式にわがものにするために、アトレウス王の息子メネラーオス王と一騎打ちを願い出た。それにはここにいるすべての人間がその結果を尊重し、どちらかがヘレネーをわがものにしたならば、それで戦争を終わりにするという条件なのだ。」
やがてメネラーオスがアガメムノーンに目をやると、王は肯いたので、「その条件は承知した。だが、プリアモス王その人を城市から呼び寄せて全てのトロイア軍と同盟軍の名においてこの条件を飲むと誓わせてほしい」と申し出た。

◇◇◇

トロイアのパリスの家ではヘレネーが亜麻布に刺繍していたが、パリスがヘクトールに戦いを挑んでいると聞くと、プリアモス王とその顧問たちがすわっているスカイア門のそばの望楼に向かった。
この望楼からは平原で行われていることがすべて見通せるのだった。
「ヘレネーだ」
顧問達は顔を見合わせて言った。「トロイアとギリシャがあの女をめぐって戦いを交えるのも不思議はないな。あの女はまるで永遠の女神のように美しい。しかし、わしはあの女にトロイアから出て行ってもらいたい。あの女のせいでギリシャの老いも若きもどれほど悲しい目にあわされたことか・・・・」
ところがプリアモス王だけはヘレネーがパリスによって連れてこられたときから常に優しかった。
「かわいい娘よ、ここにおいで。ここからならギリシャ軍の王や王子たちを指し示してわしらに教えておくれ。」
ヘレネーはギリシャ軍の軍列を眺めると次々と指揮官を示していった。
「青い胸当てのがアガメムノーン、赤黒い髪のオデュッセウス、高い背の大きな盾をもっているのがテラモーンの息子アイアース、まだ年若いディオメーデス、純金の盾を持つ白いあごひげの長老ネストール、足の速いロクリスのアイアース、美しいのがクレータ島のイードメネウス王・・・・」
プリアモス王と顧問達はギリシャ軍の並み居る指揮官の立派なことを褒め称えた。
「ああ、でも、一番年若く、美しく、だれにも負けない勇敢なアキレウスの姿がありませんわ・・・・」
プリアーモス王と顧問達がヘレネーとともに望楼で話し合っているところに、伝令のイーダイオスが近づいてきた。
「パリス王子とメネラーオスが一騎打ちをやり、それで戦争の勝敗を決めようとしていますが、プリアモス王御自らが立ち会ってトロイアの人民の名において誓って欲しいということです」

王は賢明な主任顧問官アンテノールを供に連れて、両軍が待っている平原へ馬車を走らせた。
やがて両軍が対峙している平原の真ん中にくると、戦車を降り、ギリシャ軍へ足を運んだ。
アガメムノーンはオデュッセウスを伴って立ち上がると、トロイアの王を迎えるために進み出た。
やがて敵味方の二人の王は水で手を洗い清め、神々に対して神酒を注ぎ、三匹の羊を生贄にしたうえで、休戦することと一騎打ちの結果に従うことを誓った。
「アガメムノーン王よ、わしは王城へ帰らせてもらうよ。ここに残って息子が戦うのを見物する元気はないのだ。主神ゼウスがいちばんふさわしいとお思いになる方に勝利をお与えくださるだろう」そういうと、プリアモス王はアンテノールと一緒に戦車で戻っていった。
たとえどんなに罪深くつまらない人間であるにしても、かわいい息子のことを思うと心は重く悲しかったのだ。

◇◇◇

ヘクトールとオデュッセウスは両軍の距離を測り、兜の中に入れた籤をふった。
どちらが先に槍を投げるかを決めるためだった。結果、パリスが先になった。
パリスが投げた槍はメネラーオスの盾に当たったが、丈夫な獣皮を幾枚も重ね青銅の板を被せてあったので良く持ちこたえ、槍の穂先を跳ね返してしまった。
今度はメネラーオスの番だった。
「神々や人間の主神であるゼウスよ、私に酷い悪事を働いたパリスに復讐することをお許しください。そうすれば私が行った復習は皆の記憶に残り、今後、人を親切にもてなした主人の家で悪事を働くようなマネは慎むようになるでしょう」
そういうと、ものすごい力を込めて槍を投げた。
槍はパリスの盾をまっすぐに突き通し、胸当ても貫通して亜麻布の下着も引き裂いたが、パリスは無傷だった。メネラーオスは太刀を抜いて振りかざすと、パリスの兜目がけて打ち下ろしたが、兜のてっぺんの固い青銅に当たって四つに折れ地面に落ちた。
「ゼウスよ、私の復讐をお許しくださらないのですか!?」メネラーオスは叫び、無手のままパリスに飛び掛っていくと、兜の前たてを掴んで投げ倒し、ギリシャ軍の隊列まで引きずっていこうとした。
兜の皮ひもがパリスの首をきつく絞め、窒息しそうになったが、そのうち皮ひもが切れたのでメネラーオスは兜を投げ捨てると、もう一度パリスに飛び掛っていった。
パリスの髪の毛つかんで、槍のあるところまで引きずっていくつもりだった。
しかしそのとき、パリスは突然姿を消したのだった。
パリスが女神のうちで一番美しいと判定したことのある愛と美の女神アプロディーテーの仕業だった。
女神はそのパリスがおめおめと殺されていくのを見ていられなかったので、靄で包んでパリスを彼の家に送ったのだった。
パリスは自分が死闘から助け出されたのを知ると驚いたが、心からありがたいと思った。
殺すべき相手を見失ったメネラーオスは槍を手にすると狂ったようにパリスの姿をもとめてトロイア軍の間を探しまわった。
しかし、トロイアに数々の悲しみをもたらした張本人のパリスをかくまってやろうとするトロイア人はまず1人もいなかった。

◇◇◇

二人の一騎打ちをスカイア門の望楼からみていたヘレネーは、パリスが家で待っていると聞かされて驚いた。
ついさっき、メネラーオスに打ち負かされていたパリスを確かに見ていたからだ。
本当に無事に家へ帰っているのだとすれば、それは神々の加護があったのに違いないと思った。
「私は何故あの優しく寛容で誠実な夫を捨てて出てきてしまったのだろう。肝が据わってほんとうに立派な人間だというのに・・・」ヘレネーは久しぶりに夫を見て後悔の思いに捕らわれながら家へ戻っていった。
パリスは自分の部屋で大変機嫌よくしていた。
戦場から帰ってきたというより、まるで踊りから帰った人のようだった。
ヘレネーはパリスを見ようともしなかった。
「あなた・・・あなたは今日、ご自分より強い男のところから逃げ帰っていらっしゃったのね。あなたは、もしメネラーオスと戦うようなことがあれば、さんざんな目にあわせてやると何度私に自慢したことでしょう?今日は無事にメネラーオスの手からすり抜けられたけれど、もう一度あの人に戦いを挑むおつもりがあるの?もしそうなら、あなたは大ばか者ですわ、あの人はあなたより ずっとずっと強いのですもの!」
パリスは黒々とした巻き毛を揺らして陽気にヘレネーに近づくと、
「ねぇヘレネー、そんなに私を攻めないでおくれよ。今日は神々がメネラーオスに付いていたんだよ。この次にはきっと私に勝たせてくださるのさ」パリスは眉をひそめてそっぽを向いているヘレネーの美しい顔を両手で挟んだ。
「ヘレネー、私に優しくしておくれ。笑顔をみせておくれ。私はお前を愛している。あいつの家を出ていそいそと私に付いてきたあの最初のときよりもずっとずっと好きなくらいだよ」パリスは可愛くて仕方ないという目つきでヘレネーを見ると、誘うようにその手を握った。

◆◆◆


3.ディオメーデースとバンダロス

パリスがヘレネーを見つめていた頃、トロイアの平原ではまだメネラーオスが消えたパリスを探し回っていた。
そんなメネラーオスに兄アガメムノーンは
「あの卑怯者のパリスが死んだのか、それともどこかに隠れているのか、誰かに匿われているのか、そんなことは問題じゃない。大事なのはお前があいつに勝ったということだ。だから後はトロイア人にプリアモス王が人民の名において誓ったことを守らせ、ヘレネーを返してもらい、戦争を終わらせるということだ」と諭した。

何年にも渡る戦争に、トロイア人もギリシャ人も疲弊し、飽き飽きしていたので本来はアガメムノーンのいうとおりになるはずだった。
ところが、オリュムポス山頂で見守る主神ゼウスには女神テティスとの約束があった。
ゼウスは娘アテーナーを呼び出した。
「娘よ、地上に降りて、誰か1人トロイア人の心に、あの終戦の誓いを破りたくなるように吹き込んでこい」と言いつけた。
アテーナーは見るのもおぞましい盾を取り、壊れる事の無い金の兜をつけるとオリュムポスを後にした。
アテーナーは父の忠実な娘ではあったが、この命令は嬉しかった。
なぜなら、あの黄金のリンゴをパリスがアプロディーテーに与えてからトロイアを呪っていたからだった。
パリスの犯した無礼を許すわけにはいかなかった。
トロイア中がちゃんと償いをし、プリアモスの城市が廃墟となるまで、アテーナーはこの戦争を絶対に終わらせたくなかった。
アテーナーはトロイアの平原に降り立つと、トロイアの若い貴族に姿を変えると、パンダロスを探した。
「勇敢なパンダロスよ。トロイアの王子であるパリスがメネラーオスに打ち負かされて、あなたはトロイア人として恥ずかしく思いませんか?これから先ギリシャ人たちがプリアモスの息子に勝ったと言い募ることを悔しく思いませんか?もしあなたがその弓でメネラーオスを倒したら、あなたは大変な栄誉を勝ち取るでしょう。ほら、あそこにメネラーオスが立っていますよ。ここからなら充分な距離です。ためらうことはありません。メネラーオスを射殺しなさい。そうすれば栄誉だけでなく、パリス王子から莫大な褒美が与えられるでしょう。」
パンダロスは弓と矢を取り上げると、周囲に居たものが止めるすきもなく、メネラーオス目がけて矢を放った。
しかし、女神アテーナーの方がその矢よりも速かった。
アテーナーは姿を消してメネラーオスの前に立ちはだかり、矢先を彼の革帯の金の留め金に導いた。
矢は留め金を貫いてメネラーオスの肌に突き刺さったが、大事には至らなかった。
しかし、その血は彼の下着を赤く染めた。
そばに立っていたアガメムノーンは「なんということだ!わしが愚かにも敵軍に信義があると信じたばかりにお前を死なせてしまったのか?!」と叫び弟を抱きとめた。
「兄さん、これしきの傷大したことは無い。落ち着いてくれ、でないと兵士たちが本当に私が死んだものと思うじゃないか」
「黙ってろ。医者のマカーオーンに診てもらうまで安心はできぬ」
弟の傷が重くは無いと安心すると、アガメムノーンはトロイア軍に復讐するために戦闘準備を整えるよう全軍に命令した。
「終戦の誓いを破ったのはトロイア軍だ。今度こそ、徹底的にやっつけるのだ!」

アガメムノーンは同盟軍の指揮官たちを回って檄を飛ばしていたが、中には命令が届かなかった指揮官もいた。
「オデュッセウス、お前達は戦闘を避けてお前達の代わりに戦ってくれるのを待っているのかね?」
オデュッセウスはまったくいわれのない咎めだてに腹を立てた。
「王よ、あなたの命令が聞こえなかったからといって、私を卑怯者呼ばわりなされるのか。あなたは私がこれまで先陣で戦っていたのを見たことが無いのか?きっと私の姿が見えるような先陣にはいなかったということか?口を開く時には馬鹿なことを言わないようによくお考えなさい」
迂闊にものを言ってオデュッセウスを怒らせてしまったと気が付いたアガメムノーンは、ギリシャ軍最強のアキレウス同様に協力を得られなくなったら大変だと思い、あわてて言いつくろった。
「いや、もしわしの言い方が悪かったら、勘弁してくれ。お前を辱めるつもりは全く無かったのだ」
オデュッセウスと言い争いをして面目をなくして腹が立ったアガメムノーンは次の指揮官ディオメーデースのところへ行くと、いきなり文句をつけ始めた。
「ディオメーデースよ、お前の父は勇敢な戦士でいつも先陣で戦っていたと聞いているが、その息子には父親ほどの勇気は無いようだな」
ディオメーデースは唇をかみしめて一言も口答えをしなかった。
なぜならアガメムノーンは最高指揮官であり、年上で、もっとも強大な国の王だったので敬意を表さなければならなかったからだ。
しかし、彼のそばにいたステネロスは友に与えられた、いわれのない侮辱を見過ごすわけにはいかなかった。
「王よ、それは嘘です。嘘であることはあなたもよくご承知のはず。ディオメーデースは絶対に卑怯者じゃない!」
さらに言葉を継ごうとする友を押しとどめディオメーデースは
「ステネロス、黙っていろ。王が俺に文句を言うのは全軍の指揮官として当然の権利なのだ。われわれが戦いに勝利したとき、その栄光は王のものになるだろう。しかし、敗ければその恥辱もまた王が担うのだ。だから王がわれわれを叱ったり説教するのは賢明なことであり、権利なのだ。さあ、ステロネス、王の非難を心に留めて、俺たちはトロイア軍に立ち向かおうじゃないか」
ディオメーデースはアガメムノーンから受けた侮辱を、トロイア人の血で洗い流そうと言うのだった。

戦闘か開始されたときディオメーデスほど激しい戦いをした者はいなかった。
平原を所狭しと荒れ狂い、トロイア軍の兵士を次々に倒していったとき、あのパンダロスは彼が矢の届く範囲に入ってきたのを確かめると習いを定めて放った。
矢はまっすぐに飛び、ディオメーデースの肩に突き刺さった。
パンダロスは勝ち誇り「トロイアの兵士たちよ、俺がディオメーデースを射殺してやったぞ!」と叫んだ。
ディオメーデースは徒歩で戦っていたので、戦車を引いていたステネロスの元へ戻った。
ステネロスはあらゆる方法で血止めを施していると
「ステネロス、早くこの矢を引き抜いてくれ。お前、あの大法螺吹きが俺を射殺したと言っているのを聞いたか?ちくしょう!ゼウスの娘アテーナーよ、どうか私の味方をしてください。ほら吹きのパンダロスを私の槍が届くところまで来させてください」
そういうと、ステロネスが止めるのも聞かず、パンダロスを探して戦場に飛び出していった。
ステロネスもまた、すぐあとに続いた。
トロイアの位の高い王族の息子で、トロイア戦士の中でヘクトールについで勇敢なアイネイアースは、ディオメーデースの姿を目に留めると、近くに居たパンダロスに言った。
「おい、パンダロス、ディオメーデースがまたもややってくるぞ。あいつに向かって矢を放て!」
「なんだって?あいつ、まだ生きていたのか?アイネイアースよ、俺の矢は役立たずなのか!?」
「いいから、早く俺の戦車に乗れ」
「手綱取ってくれ。今度こそこの槍でディオメーデースを討つ」!

ディオメーデースを追って戦車を走らせていたステロネスは二人が近づいてくるのを察知し、
「おい、ディオメーデース、パンダロスがまた向かってくるぞ。今度はアイネイアースとだ。矢傷を受けているお前には、二人を相手にするのは無理だ。車に乗れ。やつらの手の届かないところまで連れて行ってやる」
しかし、ディオメーデースはまだアガメムノーンから言われた侮辱を忘れてはいなかったので、
「俺は戦闘から逃げ出す卑怯者じゃない!お前から命令されてもだ。俺は徒歩のままあの二人を迎え討ってやる!いいか、ステロネス、あの二人をやっつけたら、ぐずぐずしないでアイネイアースの馬をぶんどれ。あれはトロイアで一番の名馬だそうだ」

両者が対峙すると、パンダロスはその槍をディオメーデースの胸元目がけて投げた。
槍はディオメーデースの盾を貫いて胸当に突き刺さったものの鎧を突き通すことはできなかったが、刺さったのを見たパンダロスは勝ち誇って勝鬨をあげた瞬間、ディオメーデスの槍がその頭を貫き、戦車から転げ落ちた。
アイネイアースはパンダロスの遺骸をまもるために戦車を降り、槍と盾で身構えたが、ディオメーデースは近くに落ちていた巨石を持ち上げるとアイネイアース目がけて投げつけた。
だが、止めを刺すために太刀を抜いてかけつけたディオメーデスの目の前から、一瞬のうちにアイナイアースの姿が掻き消えてしまった。
女神アプロディーテーがアイネイアースを守るために、煌く衣の裾を彼の上に広げたからだった。
ステロネスはアイネイアースのすばらしい馬を友の戦利品としてつかまえた。
 

処女神アーテナーはギリシャ軍に、美の女神アプロディーテーはトロイア軍にそれぞれ味方し、戦闘は平原のいたるところでくりひろげられていた。
恐ろしい軍神アレースもまたオリュムポスから降りてきて、人間が戦って死んでいく限り、どちらが負けようとも、勝とうともどうでもよかったが今日はトロイアに味方していた。
なぜなら、アレースはアプロディーテーの恋人だったからだ。
それを見ていたアテーナーが怒り出しアレースを追い返してしまうと、形勢が逆転した。
神々が人間の戦闘に干渉するのを止めると、またしても一進一退の戦況を繰り返すことになった。


4.大アイアースとヘクトール

ギリシャ軍の前進を押しとどめようとヘクトールが全力を尽くして戦っているところへ弟のヘノレスが近づいてきて、
「兄さん、今日のギリシャ軍には女神アテーナーがついているようです。われわれも神々にお供えをして助けてくださるように祈った方がいいと思います」と言った。
ヘクトールも自軍に不利な戦況なので弟の言い分を聞き入れ、女達のいる場内に駆け戻り、
「母上、今すぐ女達を集めて女神アテーナーの神殿へ行き供え物をして女神にギリシャ軍を城市からひきあげさせ、ディオメーデースの力を削いでくださるように祈ってくださいませんか?私はその間にパリスのところへ赴き、今すぐ鎧兜をつけて戦闘にもどるように言います。このトロイアの辛酸はみんなパリスのせいなのに、あいつは卑怯者のように家に閉じこもり、ヘレネーを自分のものににしておくために、他人を戦わせているのです!」と言った。
王妃は息子を放したがらなかったが、ヘクトールは母親を抱きしめると王宮のそばのパリスの家へ急いだ。
王妃はトロイアの女たちを集めると、神殿へ行き、美しい豪華な衣裳を女神に備えると、ギリシャ軍をトロイアから引き下がらせ、ディオメーデースの力をくじいてくださいと祈ったが、アテーナー女神はギリシャ人を心から助けていたので、彼女達の祈りに耳を貸すことは無かった。

ヘクトールが弟の家へいってみると、パリスは自分の美しい鎧兜の手入れをしているところだった。
「おい、見下げ果てた弟よ。その姿を見る人がいたら、お前を、いつも危険から逃げ回っている卑怯者と罵ることだろう。この戦争はお前の為に戦われているのだぞ。お前に少しでも勇気や誇りが残っているのなら、今すぐその鎧兜を身に着けて外に出て戦え!」
「兄さん私は勇気が無くて家に引っ込んでいるのではないよ。トロイアに数々の悲劇をもたらしたのが自分だってことに後悔しているんだ。今だって戦闘に出て行こうとして、こうして武器の手入れをしていたんだのに。ヘレネーも私に急ぐように言っていたところだよ」
そういうと、パリスは兄を誤魔化すために、自信たっぷりな笑顔を見せた。
「兄さん、今しばらく待ってて。あ、でも急ぐんだったら先に行ってて。私は後からすぐに追いつくよ」
ヘクトールはもう弟の誤魔化しに騙されなかった。
黙ってパリスを見下していると、ヘレネーは手に持っていた錘を放り投げて叫んだ。
「私はこんな沢山の人たちにこんな沢山の悲しみを味合わせる前に死んでしまえばよかったのです!でも運命はそうなさらなかった。ならば、夫をすててまで付いてきた方がもう少し立派な男であったらと思いますわ。少なくとも、世間の批判に耳を傾け、世間の嘲りを恥と思うような人であったらと・・・・ヘクトール・・・あなたはひどくお疲れのようです、さぁ腰を下ろして少し休息なさってください」
ヘクトールは優しく微笑み返したが、首を振って言った。
「ヘレネー、私は休んでいる暇はないのだ。お前からもこの弟に言ってくれ。すぐ戦闘に出るようにと」

ヘクトールはパリスの家を出ると、妻のアンドロマケーのもとへ寄った。
生きて再び会えないだろうと泣く妻を抱きしめてから、ヘクトールはスカイア門に向かって足を早めた。
そのとき、パリスはキラキラと煌く鎧兜を身に着けて、まるで踊りにでも出掛けるような笑顔で家から出てきた。
「兄さん、待たせて悪かったね」
しばらく弟をじっと見つめていたヘクトールは微笑んで言った。
「弟よ、お前は本当は臆病者なんかじゃない。勇敢に戦っているところを何度も見ているものな。でも世間がお前を悪く言うと俺は悲しくなるんだ。お前は無頓着だがな。さぁ、行こう。俺たちの手でギリシャ軍を追い払い、二人で力をあわせてもう一度トロイアの国を良くして行くんだ」
パリスと肩を並べてヘクトールが戦場に戻ると、トロイアの兵士たちは再び元気を奮い起こすのだった。

その頃、トロイアの平原にオリュムポスの山頂からアーテナーが舞い降りると、トロイア軍に味方するアポローン神が、
「アテーナーよ、ギリシャ人を勝たせるために またやってきたのかい?あなたとヘラはまだアプロディーテーに嫉妬しているようだが?」とにこりともせずに言った。
「ふん、そういうあなたは、なぜ運命に逆らって、いつまでもトロイアに味方しているつもり?」とアテーナーがやり返すと、
「この戦争の成り行きを定めるのはゼウスのはずだがね・・・ま、今日のところはどうだい?戦闘を止めさせないか?そのかわり、ギリシャ人1人とヘクトールと戦わせよう。この二人以外の兵士は皆休ませようではないか?」
アテーナー女神もそれを聞くと頷いて、「私がオリュムポスから降りてきたのもそう思ったからですわ。今日一日分としては随分の戦死者が出ましたものね」

そこで、アポローンはヘレノスの胸にそのことを吹き込むと、弟は兄に向かって言った。
「兄さん、提案なんですが。皆疲れているので両方に今日の休戦を呼びかけたらどうでしょう。そのかわり、兄さんと誰か一騎打ちしないかと挑戦してみては?」
ヘクトールはヘレノスの提案を聞き入れ、アガメムノーンもヘクトールの意図に気付くとすぐに戦闘中止を命令した。
兵士達がみんな地面に腰を下ろし、休息するとヘクトールはトロイア軍に向かって戦いを挑んだ。
しかし、たくましい体躯をして闘志さかんに燃やしているトロイア随一の戦士の挑戦を前にして、ギリシャ軍からはなかなか立ち上がるものはいなかった。
この日大変手柄を上げたディオメーデースでさえも肩の傷が痛んでいたので立ち上がれないでいた。
やがてメネラーオスが「諸君にはプリアモス王の中でももっとも勇猛な戦士と謳われるヘクトールと勝負しようという勇気あるものはいないのか?俺はギリシャ軍の中でも最も優れた戦士ではないが、誰も名乗り出てこないのならばこの俺が、トロイアの偉大な戦士ヘクトールと戦う栄誉を頂こう。勝敗は神々の胸の中にあるのだから!」
そういうとメネラーオスは従者に武器と兜を持ってくるように命じたとき、アガメムノーンが立ち上がって言った。
「お前が叶う相手ではない。すわっていろ!お前に代わって戦う者はわしが決めてやる!」
すると長老のネストールが立ち上がって嘆いた。
「まったく情けない連中だ。お前達の親父達に見せてやりたいわい。わしがもう一度若返ってヘクトールと戦い、戦闘とはこういうものだということをお前等に教えてしんぜよう!」
ネストールの言葉を聞いて、面目をなくしたアガメムノーンは黙ってしまうと、誰も名乗り出ない時はと心に思っていたディオメーデスが立ち上がった。
それにつづいて二人のアイアースが、イードメネスが、メーリオネース、オデュッセウスが、次々に立ち上がったのだった。
ネストール老は満足そうに頷くと
「こうでなくちゃな。よし、ではヘクトールと戦うのは誰かを神々に決めていただくために皆で籤を引こうじゃないか」と言った。

籤に当たったのはテラモーンの息子、背の高いアイアースだった。
二羽の禿鷹に身を変えたアテーナーとアポローンもこの勝負を見ようと神木の樫の木の枝にとまった。
二人の戦闘は熾烈を極めたが、太陽が沈み闇が迫ってきても、ついに決着が付かなかったので、二人はお互いの健闘を讃えあい、戦場で再びまみえる事を誓った。


夕闇がその帳をトロイアの平原に下ろしたとき、とりあえず仲直りをした神と女神が樫の木から飛び立って行った。

◆◆◆


5.猛攻トロイア軍

長い一日は終わった。ギリシャ軍の将兵たちはそれぞれの軍船に戻った。
アガメムノーンが指揮官の王や王子を自分の小屋に招いて豪華なもてなしをしていたとき、長老のネストールが立ち上がった。
偉大なアガメムノーン王と、すべての王たちよ。本当はとっくにやっておくべきことなのに、まだ手付かずのことがある。トロイアへ来て随分たつというのに、われわれは船団を守る防壁を築いてはいないではないか。今日の戦いをみても分かるように、敵軍を防ぐために防壁や塹壕が必要なのだ。明日、戦死者を火葬し墓土を高くもりあげたらば防壁を築こうではないか」
すべての王と王子もそれに賛成したので、アガメムノーンはその通りにしようと命令した。
一方、トロイア方では長老アンテノールが話していた。
「プリアモス王とすべてのトロイア人よ。私はこの戦争はもうやめてもいいと思っています。実際、われわれがこの前の休戦の誓いを破りさえしなければ、とっくに戦争は終わっていたはずなのです。そこで提案しますが、ヘレネーと彼女がスパルタから持ってきた財宝とをアトレウスの息子たちに返してやろうじゃありませんか。そうすればメネラーオスは自分の妻を手に入れられるし、アガメムノーンは故郷のミューケナイに帰っていくでしょう」
それを聞いていたトロイアの人々からは賛成のささやきが多かったが、ただ1人パリスは立ち上がると、いかにも困ったという顔をしながら言った。
「アンテノールよ、私は気に食わんな。今更なんなのだ。そんなこと、いかにも老いぼれがちょっと口にしてみただけのグチじゃぁないか。言っておくが、私は絶対ヘレネーを返しはしないぞ」
そういうと辺りを見回したが、賛成する人が殆どいないのをみてとると、言葉を続けた。
「ヘレネーが持ってきた財宝は返してやるよ、いや、もっと要求されるだけ足してやっても良い。でもな、ヘレネーは絶対手放すもんか!」
しばらくは誰も口を開こうとしなかった。
そこでプリアモス王はのろのろと立ち上がって、
「トロイアの人々よ、わが息子パリスの言い分を聞いたことだろう。国王としてわしはパリスの言い分を受け入れる。いかし、敵味方とともに戦死者を火葬し、墓土を盛り上げるまで休戦にすることをギリシャ側に申し入れよう」
王とても、トロイアの人々と同じ気持であったが、これまで王はただの一度もわが子の希みを拒んだことがなかったのだった。
国王の言うことだったのでトロイアの将兵達も賛成した。
虚しい戦いではあったが、ギリシャには負けたくは無かったのだ。

さて、明朝、トロイアの伝令イーダイオスはギリシャ軍の陣地へ赴き、プリアモス王の言葉を伝えた。
本当のところ、ギリシャの将兵たちも飽き飽きしていたのだ。
結局のところ、ヘレネーは自分の女房ではなく、自分の知ったことではなかったから、皆はなるべくメネラーオスを見ないようにしていた。
しかし、ディオメーデースは立ち上がっていった。
「今頃になってパリスからの贈り物をもらって、ありがたがっておめおめと帰るつもりはない。第一、パリスはわれわれに贈り物を贈る必要も無けりゃ、ヘレネーを返してよこすこともないのだ。トロイア軍がもういくらももたないことぐらい誰だって知っているのだからな。トロイアは遠からず陥落するのだ。そのとき、ヘレネーを取り返せるばかりか、トロイアの財宝は全部われわれのものになるのだ」
アガメムノーンは
「伝令よ、お前が今聞いたとおりのことをプリアモス王に伝えるがよい。わしも同じ答えだ。しかし、戦死者のため今日一日弔いの為に休戦にしようではないか」といった。
そのあとギリシャ軍は懸案だった、敵を遮るための深い塹壕が掘られ、防壁が築かれ、その真ん中には戦車が平原に出るための大きな門と通路が作られた。

次の日朝早く戦闘が再開された。
オリュムポスの山頂では主神ゼウスが神々を召集して言った。
「今後神々は両軍に加担して戦闘に参加してはならぬ。もし命令に背くことがあれば報いを受けることだろう」
女神アテーナーが進み出て言った。
「父なるゼウスよ。あなたのご命令とあらば私達は戦闘の手助けから手を引きましょう。でもギリシャを愛している私達はこれからも彼等の役に立つような謀だけは与えようと思いますわ」
「かわいい娘よ。そんなに心配せずともよい。おしまいにはギリシャ軍に運が向くだろうからな」
ゼウスは二頭の神馬が引く戦車に乗ると、一進一退を繰り返している両軍の戦闘を眺めていた。
そうしてテティスとの約束を守るため、昼過ぎにはトロイア軍へ勇気と力を与えたので、ギリシャ軍は海岸へ追い詰められていった。

ギリシャ軍はトロイア軍の攻撃を抑えきれなかった。
ヘクトールが塹壕までたどり着いた時には、ギリシャ兵は全て防壁の中に退却していた。
ヘクトールが防壁を突破し軍船に火をつけるぞ叫んでいる間に、防壁の中ではアガメムノーンが将兵たちを叱咤し、再び戦うための態勢を整えていた。
門は開かれ、両軍の戦いが再開され、ころあいを見てゼウスはまたしてもトロイア軍に勇気を与えたので彼等の猛攻の前にギリシャ軍は再び退却した。
ちょうど、夜の帳が下りてきた頃だった。
ヘクトールは「今一歩で敵の陣地を襲えたはずだが、夜の闇に妨げられてしまった。しかし、明日もまた味方の勝利と敵の惨敗を信じて、今夜はゆっくり休もうではないか。勝利は目前なのだ」と勝ち誇って言った。
トロイアの将兵たちは今日の戦果に有頂天になり声たからかに勝鬨をあげた。
しかし、ヘクトールは敵が彼の追撃を逃れる秘策があるのではないかと思うといてもたてもいられなかったので、信頼する部下を集めると、誰か敵の様子をさぐってくれないかと尋ねた。
「勇気を奮い起こして仕事を引き受けてくれる者には敵から勝ち取った一番立派な戦車と優れた名馬を二頭やろう」
これをきくと、ドローンという者が立ち上がった。
「ヘクトール王子よ。もし報酬としてアキレウスの戦車と二頭の馬を約束してくれるのなら、彼等の企みを探って参りましょう」 

ドローンは闇の平原を足音をしのばせて海岸へ歩いていった。

◆◆◆


6.アキレウスとオデュッセウス

その頃、アガメムノーン王の心は、数々の不安に重く沈み、指揮官を招集した会議場でこう切り出した。
「諸君、われわれが船出したとき、確かに主神ゼウスはわれわれに勝利を与えてくださるものと確信していた。しかし、わしはゼウスに騙されたのだ。神は敵方に勝利をもたらすおつもりらしい。手遅れにならぬうちに、トロイアを離れ故郷へ帰ろうではないか」
集まった王や王子達はみな押し黙ったままだったが、ディオメーデースが立ち上がって言った。
「偉大なる王よ。あなたは先刻のおり、私を臆病者とののしったが、私は一言も口答えをしなかた。今、トロイアから逃げ出す相談を持ちかけている人が この私をののしったのだとは・・・。王よ、あなたは生まれながらに人一倍ゼウスから多くのものを与えられていたが、ゼウスは大王に欠くことのできぬ勇気だけはお授けにならなかったらしい。あなたがどうしてもミューケナイに還りたいとおっしゃるのなら、どうぞそうしたらいいでしょう。誰もあなたの邪魔はしますまい。しかし、あなたに付いて行く者は1人もいないでしょうよ。あなたは、貴方の船をひとりで漕いで帰ることになるんだ」
ディオメーデースは一息継いでみんなを見渡したが、まだ誰も賛意を表さなかったので、さらに言葉をつむいだ。
「みんな、故郷にかえりたいのならアガメムノーンに付いて行けばいい。しかし、なお二人のギリシャ人だけはここに残っているだろう。私とステネロスだけはトロイアの城壁まで戦い、プリアモス王の城市を陥れるのだ」
そう叫ぶと、今度こそ将兵たちから歓声があがった。
ただひとり、アガメムノーンだけがしかめ面だった。
拍手がようやく収まった頃、長老ネストールが立ち上がった。
「ディオメーデースよ、お前のような若者が勇気をふるって喋るのを聞くと、年寄りもまた忘れかけていた勇気が湧いてくる。偉大な王よ、年寄りには思ったことをあからさまに言う権利があると思うでな、怒らないで聞いてほしいのだが・・・。あなたは最高指揮官だから適切な命令を下す権利とともに、有効な意見に耳を貸す義務もある。さて、あなたは自分の遺恨を晴らすためだけに、アキレウスが正当な手段で手に入れた物を横取りなされた。わしがお二人を仲違いさせまいと色々意見を言ったが耳をお貸し下さらなかった結果、ギリシャ軍で最も勇敢強力な戦士たちと、戦いの巧者であるアキレウスに手を引かれたのは、まことに痛手であった。王よ、いかがなものであろう?アキレウスと仲直りをし、彼と彼の部下のミョルミドーン人たちをもう一度戦闘に加わってもらおうじゃないか?」
ネストールが話し終えたとき、アガメムノーンはまだ苦しげな顔をしていたが、最高指揮官の責任としてこういった。
「主神ゼウスはギリシャ全軍よりも、ひとりの人間への愛の方が深いとみえる。そもそもアキレウスの母は女神だ。アキレウスのためとあれば、神々がわが軍を滅ぼすことも厭わないのであろう。わしは皆がこの地で滅ばないように、またわが弟メネラーオスが妻を取り返せないことにならぬように、アキレウスと仲直りしよう」
アガメムノーンはそういうと、アキレウスのもとへ使いを出すように命じた。

オデュッセウスとテラモーンの息子のアイアース、そして王の伝令二人と、アキレウスの養育係だったポイニクスが選ばれ、アキレウスの小屋へ使者に発った。
アキレウスの小屋からは竪琴と唄が流れていた。
アキレウスが竪琴を奏で、古代の英雄サーガを吟じていたのだった。
「機嫌がいいらしいな・・・」オデュッセウスがささやくと、皆は小屋へ入っていった。
「おお、誰かと思えば!私がアガメムノーンとやりあったとき、あなた方は彼の方へ味方したが、それでもあなた方は私の友人だ。よく来てくださった」
アキレウスは自分の養育係を抱きしめると、使者たちに椅子と夕食を勧めた。
アキレウスは久しぶりの客に上機嫌だったので、ポイニクスが合図をすると、オデュッセウスが使いの趣旨を切り出した。
「アキレウスよ、君は知っているか?ギリシャ軍は窮地に立ている。今日の戦いで、ヘクトールがわれわれをこの船団のところまで押し返し、我々が先ごろ築いた防壁の塹壕の向こうで野営している。夜の明けるのを待って、ギリシャ船団を焼き払うのだと嘯いているのだ。君がここで大王への怒りを解き、我々とともにもう一度戦ってくれなければ、明日の今頃はギリシャ軍は死に絶えることだろう。君は船出するあの日、父上から短気を押さえ、争いを慎むようにと戒められたのではないか?父上がそう言われたことを私は覚えているのだが。アキレウスよ、アガメムノーンは自分が悪かったと認め、ブリーセーイスを返すと言っている。その上、膨大な贈り物と、故郷へ帰ってからは、自分の娘を嫁にと言っているうえ、領地の中でもっとも素晴しい地を与えると約束もしたのだ。」
しかし、オデユッセウスはアキレウスが贈り物などで買収されるような男ではないと知っていたので、急いで付け足した。
「しかし、どうしてもアガメムノーンのことを許せないのなら、どうか君の友達を哀れに思ってくれないか。ギリシャ軍が滅びるのを黙ってみていてほしくないのだ。一緒に戦ってくれ。それに明日の戦闘では、トロイア最大の戦士ヘクトールとぶつかることになる。ヘクトール相手なら不足はあるまい?あの偉大な戦士を倒せば君は永久にその名を留めることになるのだ」
オデュッセウスの弁舌が途切れると、アキレウスはもう我慢ならないという風に口を開いた。
「オデュッセウスよ、俺の気持ちは変わらんよ。大王の贈り物がトロイアの海辺の砂粒よりも多くてもいらない。俺は絶対にアガメムノーンを許さないし、ブリーセーイス正当に手に入れた俺の奴隷だが、アガメムノーンが横取りしたんだ。もうアガメムノーンのものだ。出自は高貴な生まれの女だ。こんなことがなけりゃ俺は結婚していただろう。我々が遥かトロイア地に遠征してきたのは妻を盗み取られた男のためだが、この世の中でアトレウスの息子だけが、自分の妻や女を愛しく思う権利があるというのか?オデュッセウスよ。アガメムノーンは俺の手なぞ借りずに弟の妻を取り返せばいいんだ。できないのなら潔くこのトロイアで滅びればいい。俺には関係ないよ。アガメムノーンの娘がどんなに美しくったって、最高指揮官の娘婿にはこのアキレウスよりもふさわしい男をあてがえばいい。俺には定められた運命があって、俺はそれを受け入れたが、アガメムノーンのために働いて得る栄光ならば、そんなものいらぬ。誰にも知られずに、栄光もなく長生きする方を選ぶよ。アトレウスの息子達がこの地で滅びるにまかせておいて、俺は明日にでも故郷に向けて船出しよう。あなた方も俺の忠告を受け入れるならそうしたらいいさ。アトレウスの息子たちのための戦争なら、彼等だけの手で決着すればいいんだ!!」
そうしてアキレウスは養育係のポイニクスの説得にも耳を貸さなかった。
オデュッセウスはさらに説きつけたがったが、アイアースは腰を上げていった。
「もういいだろう、オデュッセウス。この強情な男は我々戦友のことなど、これっぽっちも思ってやしない。戻ろう」
「これは、俺が戦友たちの苦境に同情するしないの問題じゃない!俺にギリシャ軍を助ける意志があるかどうかでもない。俺に加えられた侮辱の問題なんだ。さぁ、俺が今度は友人のあなたたちに腹を立てる前に出て行ってくれ!」

オデュッセウスたち使者がアガメムノーンの小屋に戻ると、ギリシャ軍の全ての王や王子たちがまだ待っていた。
彼等が最後の希望が絶たれたと知るとアガメムノーンが思わずうつむいたので、ディオメーデスが言った。
「アガメムノーン王よ、貴方はアキレウスに頭をさげたり、贈り物を約束したりしなければよかったんだ。彼はもともと傲慢な男だが、貴方はさらに思いあがらせてしまったんです。アキレウスとその部下は好きなようにさせておきましょう。我々は彼のことを忘れ、勇敢に戦うことです。後悔なんて役に立ちはしないのだから、今夜はもう明日の為に身体を休めることにしましょう」

◆◆◆


7.スパイ

メネラーオスは、友人たちが自分の妻ヘレネーのために敗北と滅亡の危機にあると思うと、眠れなかった。
また兄アガメムノーンもまた自分の軽率な行動の結果をひそかに悔やんでいた。
二人はそれぞれの小屋でまんじりともせずにいたが、メネラーオスはもう一度兄と相談しようと寝床を抜け出した。
「兄さん、どうしたんだ?」
アガメムノーンも小屋を出て夜空を見上げていたのだ。
「弟よ・・・わしは敗北をまぬかれる方法なんて思いつかんよ。神々は我々を見捨てて、ヘクトールについたのだな。そうだ、もしや今頃誰かが名案を思いついたかもしれん。もういちど皆を集めてみよう」
メネラーオスは兄の命令を伝えるために駆け出した。
身体を動かしていると、この不安から逃れられるような気がしたのだった。
そうしてアガメムノーンは長老ネストールの小屋へ入っていった。

再びギリシャ軍のすべての指揮官が会議場に集まると、ネストールが真っ先に口を開いた。
「不安ほど元気と勇気を挫くものは無いな、皆の衆。提案がひとつある。トロイアの野営地にもぐりこんで、情報を集めてくる勇気のある者はおらんか?今夜のうちに夜襲をしかけてくるのか、それともすべては明け方を待ってなのかが知りたい。それと、陣立てをだ」
しばらくは手を上げるものがいなかったが、ディオメーデースが名乗りを上げた。
「その任、お任せください。しかし、もう1人、私と供に行ってくれれば尚のこと正確な情報を得られるでしょうから」
今度はすぐに皆が手を上げた。
アガメムノーンは「ディオメーデースよ、供はお前が適任と思う者を選べ」と言ったので、オデュッセウスを指名するとすぐ偵察の準備を整えた。
そして、女神アテーナーに、自分達が指名をはたし、無事自陣地に戻れるよう祈りを捧げ、女神はそれを聞き入れたのだった。

二人は平原の暗闇にまぎれて、茂みに隠れながらトロイアの野営地に近づいていった。
すると、オデュッセウスが向こうからこそりと人目を忍んでやってくる人影に気付いた。
「あれをみろ、ディオメーデース。戦死者の武具を剥ぎ取りに来た物盗りではなさそうだな。トロイアのスパイかもしれん。あいつをやりすごすんだ。そうしてから あいつを追いかけてみよう」
二人はそこいらじゅうに倒れている戦死者の中に身を横たえた。
ドローンはそれと気付かず、船団に向かって行った。
オデュッセウスとディオメーデースは立ち上がると、ドローンを追った。
「止まれっ!止まらないと突き殺すぞ!」ディオメーデースが放った槍は、ドローンの頭を越えて、その足元の地面に突き刺さった。
「命ばかりはお助け下さい。私の父は豊かなので、私のためとあらば莫大な身代金をお支払いいたします」
オデュッセウスは笑いながら「誰が殺すって言ったって?さて、お前はこんな闇の中を何をしに行くのかね?言ってみろ」と言う。
「はい!ああ、私は馬鹿でした。ヘクトールが褒美にアキレウスの馬をくれると約束したので。ギリシャ軍が逃げ出すつもりなのか、戦うつもりなのかを探れと・・・」ドローンはガタガタと身を震わせて白状した。
「ははは!アキレウスの馬とは恐れ知らずなことだ。あれはアキレウスの父上ペーレウス王が神々よりいただいた神馬だ。お前ごときに御せるはずは無いだろうよ。ところで。トロイア軍の野営陣地はどんな配置になっている?見張りはどうだ?ヘクトールはどこにいるんだ?」
「ヘクトールは野営地にはおりません。指揮官たちとの会議のために、城市よりのところにいます。野営地に特別の見張りはいません。同盟軍にもです」
暗闇の中でオデュッセウスは目を細めて考え込んだ。
「同盟軍はトロイア軍と混じって寝ているのか?」
「いいえ、別に寝ております。野営地の一番向こう側には援軍のトラーキア人たちがレーソス王とともにいますが。あの、何故そんなことをお尋ねになるので?」
そこまで聞くと、ディオメーデースはすらりと太刀を抜くと、
「ありがとうよ、では俺たちはレーソス王の名馬を目当てに運試ししてこようか。お前のことはこうするのが一番良いだろうな」
そういうとドローンの頭を刎ね飛ばした。

二人がその場所についてみると、ドローンの言ったとおりにトラーキア人たちは一人も見張りを立てずに眠っていた。
ディオメーデースは太刀を引く抜くと、物音ひとつ立てずに手の届くところに居た兵士をことごとく殺した。
クレーソス王もことりと言う音に気がついて起き上がったところを討たれてしまった。
オデュッセウスはその間に、王の戦車から二頭の馬を解き放つと手綱を取った。
二人はその馬に飛び乗り、海岸へ向けて疾駆してもどると、仲間達は塹壕の前で待っていた。
ドローンから剥ぎ取ったものを明日のアテーナー女神への捧げ物と一緒に置くと、二人は身を清め、女神に感謝の酒を注いで、やっと眠りについたのだった。

◆◆◆
 


8.戦闘

暁の女神がアガメムノーンの胸甲を染める頃、ギリシャ軍は防壁と塹壕の前に集結していた。
トロイア軍はそれと向かい合っている。
戦闘が開始された。
今日はギリシャ軍が優勢だった。
昼頃になると、トロイア軍は城市まで押し戻されていたがスカイア門のカシの神木あたりに集結すると、よく踏みとどまっていた。
それが主神ゼウスと女神テティスとの約束だったからだ。
アガメムノーンが腕に傷を受けて軍船に戻るのを見たトロイア軍はまた力を盛り返してきた。
「ディオメーデース、こっちへ来い!ふたりの力をあわせればヘクトールを防壁に近づけることはないだろう!」オデュッセウスがそう叫ぶと、
「オデュッセウスよ、あれをみろ、ヘクトールがやってくるぞ」とディオメーデースはヘクトール目がけて槍を投げた。
その槍はヘクトールの兜に命中したが突き通るまではいかなかった。
ヘクトールは不覚にも脳震盪をおこし、部下にかつがれて戦車に乗せられ安全なところまで運ばれていった。
「ちくしょう!ヘクトールめ。やつはきっとアポローンの庇護にあるのだ」ディオメーデースはそういうと悔しがり、小者を次々と倒していった。
その様子を槍の届かないところでパリスが見ていた。
パリスは矢をつがえると、ディオメーデース目がけて放つ。
矢はディオメーデースの足を突き通し、地面に釘付けにしてしまった。
ディオメーデースは一瞬何が起きたのかといぶかしがったが、苦痛と驚愕の表情を浮かべると、パリスが大声で笑い、彼をからかった。
「卑怯な弓使いめが!お前は巻き毛のお喋り野郎で、自分よりずっと立派な男の女房を寝取るしか能が無いんだ。お前が俺と一騎打ちをやるのなら、お前の弓など何の役にも立たんぞ。こんな矢が俺の足をかすめたくらいで喜ぶなんざ100年早いわっ!」
しかし、パリスはあざ笑ったまま遠く離れたところで戦っているヘクトールの方へ走り去ってしまった。
ディオメーデースは足から矢を引き抜いた。
気にしないと言ったものの、傷の手当てはしなくてはならなかったので、ステネロスが戦車に乗せて船団まで送り届けることになった。
トロイア軍を向こうにまわし、ただひとり取り残されたオデュッセウスは戦車を背に身構えた。
敵を前にして逃げ出すことを潔しとしなかったのだ。
たったひとりと見たトロイア兵たちはオデュッセウスめがけて殺到してきたが、獅子奮迅の勢いで戦う彼の前に累々たる屍になって倒れていった。
しかし、さしものオデュッセウスもついに敵の槍に横腹を突かれたが、突いた相手を追いかけて討ち殺してしまった。
彼が傷ついたと見て取ったトロイア兵は尚も襲い掛かったので、オデュッセウスは仲間を呼んだ。
メネラーオスとテラモーンも駆けつけ、大アイアースがものすごい勢いでトロイア兵を倒している間に、メネラーオスがオデュッセウスを敵の包囲から救い出し、戦車に乗せて戦闘の外へ運び出した。

一方ヘクトールはギリシャ軍の長老ネストールやイードメネス王、医者のマカーオンを相手に戦っていた。
そこへやってきたパリスはわが身を部下に守らせながらマカーオンに狙いをつけて矢を放った。
マカーオンはその右肩を射抜かれ戦えなくなってしまったので、イードメネス王は
「ネストール王よ、マカーオンをあなたの戦車に乗せて安全な場所へ!医者は多くの兵士にとって無くてはならない人間です」と叫んだ。
ネストールは戦闘から離れるのを拒みたかったが、ほかでもない、大事な医者マカーオンのことだったので、傷ついた医者を船団へ連れ出した。
ヘクトールはイードメネウス王やクレータ島の戦士たちを相手にしていると異母弟のケブリオネースが叫んだ。
「兄上!向こうで一人のギリシャ戦士が味方を次々に倒しています。大アイアースです!」
ヘクトールは「よし、行こう!」と言った。
大アイアースは戦闘の最前線で一騎当千の働きぶりをしていたのだ。


イーデーの山頂から戦闘の様子を見下ろしていたゼウスはテティスとの約束の為にトロイア軍には勇気を、ギリシャ軍には狼狽を吹き込んでいた。

◆◆◆


9.門が突破された

ネストール老の戦車がマカーオンを乗せて海岸に近づいてきた時、遠く自分の軍船から戦闘を眺めていたアキレウスが気付いてパトロクロスに言った。
「今日もアガメムノーンの旗色が悪いようだな。また近いうちに俺に泣きついてくるかもしれん。しかし今しがたネストールの戦車が傷ついた兵士を運んでくるのが見えたが、あれは医者のマカーオンのようだった。本当にそうならギリシャ軍にとって大変な痛手だろう。パトロクロス、行って確かめてくれないか」
パトロクロスがネストール老の小屋へ行くと確かにマカーオンが負傷して寝かされていた。
ネストールはパトロクロスが顔を見せたのを喜んで、少し一緒に飲んでいけと誘った。
「いいえ、ありがたいのですが、アキレウスが私の報告を待っているので・・・」そう言って立ち去ろうとするパトロクロスに
「おかしいのぉ。何故、あのアキレウスが戦闘で傷ついたのが誰なのか気にする必要があるんじゃ?ディオメーデースもオデュッセウスもあの、アガメムノーンでさえも負傷しておる。このマカーオンはあのパリスの矢でやられたんじゃ。しかし、我々の苦しみや悲しみなど、アキレウスの構ったことじゃないだろう。あやつの頭にあるのは自分ひとりの栄光だけなのだろうが。ギリシャの船団が焼き払われ、かつての友人達がことごとく死に絶えれば自分の胸の痞えがおさまるんじゃろうて。今更、なにゆえお前を寄越す気になったんだ?のう、パトロクロスよ。今からでも間に合うかもしれんのじゃ。せめてミュルミドーン人たちを我々に加勢してくれんか?」と言った。
心を揺り動かされたパトロクロスは「ネストール王よ、あなたのために出来るだけのことはいたします」と言ったのだった。

その頃、ギリシャ軍はまたもトロイア軍に追い詰められ、防壁の中に退却していた。
トロイア軍はどんなに優勢をかこっていても防壁と塹壕を越えて侵入できなかったのだ。
ポリュダマースが「ヘクトールよ、どんなに優れた馬でも越えるのは無理です。上の方は広くて飛び越えられませんし、戦車で塹壕を渡ったとしてもどうやってあの高い防壁を登るのですか?それよりも徒歩で塹壕を越え、防壁をよじ登るのです」と進言すると、ヘクトールはそれを受け入れ、全軍を5つの部隊に分けた。
第一部隊はヘクトールとポリュダーマスが率い、中央防壁の突破にあたった。
第二はパリスとアンテノールの息子アゲーノールが指揮をとった。
第三はヘレノスとデーイポボス。二人ともヘクトールの弟だった。
第四はアイネイアースが、第五はサルペードーンとグラウコスが担当した。
トロイア軍の兵士達は塹壕を飛び越え、防壁に取り付こうとする。
するとギリシャ軍は防壁のてっぺんから次々と石を投げ下ろしてトロイア兵士が登ってくるのを防ぎ、 トロイア軍の猛攻に防壁はなんとか持ちこたえていた。

さて、テティスとの約束を忘れないゼウスは、栄光をヘクトールの上に与えた。

ヘクトールは防壁の真ん中に作られている一番大きな門を攻撃していたのだ。
幅の広い二枚扉の大きな門は、二本の大木の閂でしっかり閉められていたが、この門に向かってヘクトールたちは繰り返し大木の幹で打ちかかっていくと、ついにミシミシという音を立て始めたのだった。
ヘクトールは大きな石をかかえあげ、力をこめて何度も門にぶつけていた。
するとさしもの大門も遂に壊れたのだった。勝鬨をあげてヘクトールらが門を開け放つと、両手に槍を持ち門の内側になだれ込んだ。
トロイア軍の戦士が次々とヘクトールの後に続く。
防壁を守っていたギリシャ軍はジリジリと船団の方へ追い詰められていった。
背水の陣となったギリシャ軍はもっとも勇敢な戦士たちを一列にし、押し寄せるトロイア兵と白兵戦tになった。
「いいか、ものども!ぬかるなよ!勝利は我々のものだ。ギリシャ人の人垣などものともするな。ゼウスの加護は我等にある!」ヘクトールはそう檄を飛ばしつつ、激戦の中トロイア兵を鼓舞して回っていた。
すると、戦闘の左端にパリスが戦っているのを見て近づいて言った。
「弟よ、お前の為に戦っていた味方の勇者達はどこだ?アダマースやアシオスは?オトリュオネウスは?俺たちの兄弟ヘレノスとデーイポボスはどこにいる?」
パリスはその美しい顔をすこし歪ませて、「何故こんなときに私をとがめだてするんだ、兄上。私もずっと戦っていたじゃないか。アダマースとアシオスは死んだよ。クレータ王イードメネウス王の槍に突き殺されたんだ。私達の二人の弟は手傷を負って城市に戻っているよ」と言う。
ヘクトールはスパルタの王妃を盗み取ったパリスが手傷ひとつ負わず生きながらえているのに、こんな不肖の弟よりずっと立派な者たちが戦死したと聞くにつれ、思わず眉目を寄せた。
「兄上、私はどこで戦えばいいんだ?」
「戦闘が一番激しいのはポリュダマースとケブリオネースがテラモーンの息子たちと戦っているところだ」
二人が戦場に戻ると、大アイアースが大声で呼ばわった。
「プリアモスの息子よ、よく戻ってきたな。お前は俺たちの船団を占領するつもりだろうが、まだ手に入れてはいないのだぞ。ヘクトール!」と、からかうと、ヘクトールも負けじと「たわけが!テラモーンの息子よ、お前が逃げないというなら、命はもらった!」

そして戦闘はますます激しくなったのだった。

◆◆◆


10.船団の傍らでの戦い

パトロクロスが小屋を出て行くとネストールは戦闘の物音が激しくなってきたのを心配し「マカーオン、お前は動くな」と言いおいて外の様子を見に出掛けた。
ネストールは自分の心配が現実のものになってきているのに気が付いた。
防壁はすでに突破され、敵は船団のすぐ近くまで押し寄せていたのだ。
ネストールは負傷して戦闘を離れているアガメムノーンに知らせるべきか迷っていたのだが、向こうから槍を杖代わりにしたアガメムノーンとオデュッセウス、ディオメーデースの三人が出てきていた。
「ネストールよ、お前は何故戦闘を離れているのだ?まさか、あのヘクトールが防壁を破ったのではあるまいな。神々が残らずあの者の味方をしているのでもなけりゃ、そんなことは起こるまいが。それとも、あの青二才のように、わしのもとで戦うのを拒む王や王子が他にも出たというのか?」
「偉大な王よ、本当に防壁が破られたのだ。ヘクトールとトロイア軍は船団の第一列付近まで攻め寄せている。どうすればいい?」
ネストールの言葉を聴くと、オデュッセウスとディオメーデースは顔を見合わせた。
アガメムノーンは青ざめ、狼狽して言った。
「神々は本当に我々を憎んでおられるのか。これではギリシャ軍がトロイアを攻め落とす見込みなど無くなったも同然だ。こうなればできるだけ多くのギリシャ人の命を救う努力をせねばなるまい。海に一番近い船団をまず海上に引き出し、渚から離れたところにある船団は・・・日が沈んでから海上に引き出して船出しよう。神々が敵軍に味方しているときには全滅の運命から逃れようとしても恥ではあるまい?」
つまり、アガメムノーンは海に一番近いところにある財宝を積んだ自分の船団と、少なくとも隣に停泊している弟メネラーオスの船団だけは無事に故郷へむけて出航させたかったのだった。
アガメムノーンの意図がわかると、オデュッセウスとディオメーデース、ネストールはしばらくのあいだ呆気に取られたが、やがて怒気を含んだ静かな声でオデュッセウスが話し出した。
「大王よ、すべての神の名にかけてお尋ねするが、あなたは卑怯にも戦友を見捨てようとなさるおつもりか?我々はアトレウスの息子のためにトロイアの地で10年も戦ってきたが、、あなたは我々ではなく、卑怯者やつまらぬ人間たちの軍隊を指揮なさればよかったのだ。いいですか、貴方は今、偉大な指揮官なら絶対に言ってはならぬことを口になされたのですぞ。以後、他の人間に聞かれないようになさい」
ネストールは厳しい顔をしていたし、ディオメーデースは軽蔑しきった目でアガメムノーンを睨みつけていた。
「ならば、いったいどんな名案があるというのか!」
「我々もいますぐ鎧兜を身に着けて、味方の戦士たちがヘクトールを近づけまいと戦ってる場所へ行くのです。本当は我々のような手傷を負ったものは引っ込んでいた方が良いのですが、少なくとも私達なら味方を激励することはできるし、最高指揮官が姿を現せば味方の士気は高まるはずです!万が一にも、神々のご意志により よしんば我が軍が全滅させられる運命にあっても、私達も潔く仲間とともに死ぬまでです!」
ネストールとオデュッセウスはそう言ったディオメーデースの勇気を褒め称え賛成した。
アガメムノーンもまたしぶしぶながら賛成せざるをえなかった。

4人の王が戦闘の仕度を整え戦場に戻ると、味方の士気を鼓舞して回った。
始めかtら終わりまで一番激しい戦闘が行われたプローテシラーオス王の船団前では、ヘクトールがパリスを従えて攻撃をかけていた。
ヘクトールの投げた槍は大アイアースの鎧を突き通せなかったが、アイアースの投げた巨石はヘクトールの胸に中り、ヘクトールは倒れのた打ち回った。

しかし、主神ゼウスはアキレウスのいないうちにギリシャ方に勝ちを与えなかったのでアポローンを呼び寄せ、一時戦場を離れたヘクトールに再び勇気と活力を与えよと命じたのだった。

ヘクトールが倒れたと思ったギリシャ軍は一旦は優勢になっていたが、ヘクトールが無事な上にますます元気に指揮をとるのを見て、またも勇気を挫かれ、全て防壁の内側に退却した。
ヘクトールは味方の兵士達に、「このままの勢いで敵を追い詰めるんだ。戦利品を集めるのは後にしろ。戦いに勝つまで誰一人として戦死者から戦利品を剥ぎ取ったりするな。戦闘から手を引いてもならん!そういうやつはこの俺が命をもらう!」そういうと防壁をめがけてまっすぐに馬を駆り立てた。
トロイア軍の兵士は誰もが鬨の声をあげていた。
アポローン神が味方するトロイア勢はますます勢いづき、ギリシャ軍は神の悪意に恐怖と不吉な思いをつのらせていた。
みるみるうちにトロイア軍が押し寄せてギリシャ軍はついに船上にまで追い詰められ、上から下にいるトロイア兵に向けて槍で戦っていた。
ヘクトールは船を焼き払えと怒鳴っていたが、まだその松明は軍船に届くまでには至らなかった。

◆◆◆
 


11.わかれ

船団のあたりでの戦闘の物音が大きくなってきた。
パトロクロスはアキレウスの船に急いだ。
後ろを振り返るとはるかに遠い中央では激しい戦闘が繰り広げられ、トロイア軍が船団のすぐそばまで来ているのがよく見えた。
パトロクロスの目には涙が滲んだ。
アキレウスもまた軍船の船尾にいてパトロクロスを待っていたが、そこからも戦闘の様子がよく見えた。
仲間達の苦境に対し、少しは自分にも責任があると感じてはいたが、アガメムノーンのためには戦わないのだと頑なに決めていた。
パトロクロスの涙を見て取ると、それは自分への非難だと思ったが、アキレウスは自分の心を守るためにわざと嘲って言った。
「どうしたんだ、パトロクロスよ。お前まさかギリシャ軍のために泣いているんじゃないだろうな?」
しかしパトロクロスは親友の深奥にあるギリシャ軍への同情も見て取っていたので
「俺は本当にギリシャ軍のために泣いているんだ。でも誰だって今のギリシャ軍を見れば泣くだろう?あの勇敢なディオメーデースやオデュッセウスも、アガメムノーンでさえも手傷を負った。エウリュピュロスもマカーオンもだ。他にも大勢!」
アキレウスは一言も言わず唇を噛んだまま友を見つめている。
「ああ、アキレウスよ、お前はそんなにも情け知らずだったか?俺がお前の国に逃れてきて以来ペーレウス王は本当の父上のように俺に親切だった。美しいテティスもだ。きっとお前の父と母は他にいるんだ。あの冷たい灰色の海と、ごつごつした崖の間から生まれてきたんだ。お前の心は今それほどに無情に見える!!」
アキレウスはパトロクロスの苦渋に満ちた嘆きに心をゆすぶられ、言葉をかけようとしたが、反対にパトロクロスがアキレウスの両手を取って言った。
「アキレウスよ。お前がどうしても味方を救うために戦えないというなら、せめて俺にミュルミドーン人たちの指揮をとらせてくれ。トロイア勢にいよいよお前が戦場に出てきたと思わせるためにお前の鎧兜を俺に貸してくれ。そうすれば奴等は恐ろしくなって城市へと退却していくことだろう」
「たとえどんなことがあっても、俺はアガメムノーンのために戦いはしないが、お前までそうしろとは言わぬよ。ミュルミドーン人たちの指揮をとりたまえ。そしてヘクトールなど少しも恐れちゃいないと思い知らせてやれ。ああ、パトロクロスよ。ギリシャ軍が全て故郷に向けて出立したのち、トロイア軍が我々二人の前に横たわったらいいのに。その日が見れたら生きた甲斐があったというものさ」
アキレウスは肩をすくめると溜息をつきながら言った。
「パトロクロス、行け。そしてすぐに戻れ。無事にな。お前が仕度をしているあいだに俺は兵士たちを呼び集めておこう」
ミュルミドーン人たちは再び戦闘に加わることになると歓呼の声を挙げた。
敗北しつづけるギリシャ軍をただ漫然と見つめるだけの日々がやっと終わるのだ。
御者のアウトメドーンがアキレウスの戦車に二頭の神馬をつけた。
クサントスとバリオスという、西風の神を父に生まれた不死の馬たちである。
パトロクロスはアキレウスの鎧兜をつけた。
両肩にはアキレウスの楯をつけ、黄銅の太刀を佩いた。槍は自分のものだった。
アキレウスのものを使いこなせるのはアキレウスと、その父ペーレウスだけだったからだ。
「よいかお前達。お前達は俺が戦闘に出て行かないと不平を言い続けてきた。戦いに臨めば大いに手柄を立てるのにと言っていたな。いよいよそのときが来たのだ。俺はお前達の大勝利を待っているぞ!」
ミュルミドーン人たちは槍を高く掲げ、鬨の声をあげた。
アキレウスはパトロクロスを抱きしめた。友は戦車に乗り込むと、戦いが一番激しいプローテシラーオスの船団へ神馬を走らせた。
アキレウスはひとりになると、主神ゼウスに祈った。
親友パトロクロスが華々しい戦功を上げ無事に自分のもとに戻ってくれるようにと。
そして戦闘の成り行きを見守るために再び軍船に登った。

◇◇◇

火を放たれた軍船のかたわらではトロイア軍が勝鬨をあげていた。
アウトメドーンはアキレウスの戦車を止めるとパトロクロスはミュルミドーン人たちに呼びかけた。
「仲間達よ、これまでのどんな戦闘よりも勇敢に戦い、アキレウスに偉大な栄誉を勝ち取るのだ。アガメムノーンが辱めた相手がどんなに偉大な戦士であるかを思い知らせよ!」
パトロクロスはトロイアの同盟軍であるパイオニアの王を倒した。
指揮官が戦死し浮き足立ったパイオニア勢は逃げ出した。
ギリシャ軍は思いがけない援軍に勇気を奮い起こし、ミュルミドーン人の一部は燃える軍船の火を消すと、ギリシャ軍と合流しトロイア軍を塹壕のあたりまで押し戻すと、トロイア軍の指揮官達を次々に倒した。
ヘクトールも最後まで踏みとどまってはいたがついには戦車に飛び乗り退却始めた。
パトロクロスを先頭に逃げるトロイア軍を追撃する。
今日の戦いで激しいところにはパトロクロスの姿があった。
主神ゼウスはこうしてアキレウスの願いの半分を叶えたのである。

ギリシャ軍の勝利に酔ったパトロクロスは、アキレウスがすぐに引き返せと言ったのを忘れ、敗走するトロイア軍を城壁のそばまで追って行った。
パトロクロスはヘクトールの戦車が近づいてくるのに気付くと、戦車から飛び降り、大きな石を拾うと御者のケブリオネースに投げつけて殺した。
ヘクトールも飛び降りたのだが、トロイア兵たちが彼の周りを取り囲み、パトロクロスの槍が届かないところまで引いていった。
パトロクロスの周りにもギリシャ兵がいたが、彼は二度三度と飛び出しては敵兵を討っていた。
そして4度目、一人で飛び出したとき、少しの隙を突いて名も無きトロイア兵の槍がその背中にぶすりと刺さったのである。
パトロクロスはよろめき、ギリシャ軍の方へ戻っていくところを見たヘクトールが止めを刺したのであった。
「アキレウスは俺を殺すようにお前を送ってきたが、俺の槍先にかかり、俺の足元で死のうとしている今、アキレウスの友情など何の意味も無い!」
「お前は俺を殺すことによってr、自分をまもなく死ぬように運命づけたんだ。アキレウスがきっと俺の仇をとってくれるのだからな」
パトロクロスは死に際にそう言い置くと、激しく身体を震わせて、そのまま息絶えた。
アウトメドーンはパトロクロスが死ぬのを見ると、戦車の向きを変え、神馬をヘクトールの槍の届かないところまで運び去った。

◆◆◆
 


12.息絶えた戦士

メネラーオスは勝鬨をあげるトロイア兵に気付き、パトロクロスが討ち取られたことを知ると 駆け出した。
遺体に行き着く前にパトロクロスを最初に刺したトロイア兵が現われ、
「パトロクロスを最初に槍で刺したのは俺だからこの死体は俺のものだ」とメネラーオス目がけて槍を放ったが、楯で受け止めたメネラーオスはその男の喉笛に槍を突き刺した。
メネラーオスがパトロクロスの死体を運び出そうとしているのにヘクトールが気付くと、トロイア兵とともに走りこんできた。
トロイア兵に囲まれたメネラーオスは大アイアースを呼ばわったが、アイアースにその声は届かなかったのでパトロクロスの死体を置き去りにするしかなかった。
ヘクトールは勝ち誇り、パトロクロスの死体から、アキレウスの鎧兜を剥ぎ取った。
「アイアース、早く来てくれ!パトロクロスの死体をトロイア軍から助け出すんだ。アキレウスの手に取り戻すのだ!」
メネラーオスが叫ぶと、大アイアースとメネラーオスは槍を振り回して踊りかかっていったので、ヘクトールは退却せざるを得なかった。
パトロクロスの死体のそばに立ちはだかった二人はさらに仲間を呼ばわった。
数人の者が駆けつけ、パトロクロスのぐるりを楯と楯を触れ合わせて人垣をつくり、あらゆる方向から攻めて来るトロイア兵と向き合って戦った。
パトロクロスの死体を守るギリシャ兵たちはクタクタに疲れていたが、その間にもトロイア兵の戦死者が増えていった。
その日の午後、彼等はパトロクロスの死体を救い出そうと戦い続けたのだ。
ヘクトールはパトロクロスから剥ぎ取ったアキレウスの鎧兜を身に着けると、
「誰でもいい、パトロクロスの死体を引き摺ってきたものには今日の戦利品の半分をやるぞ。そしてその者は今日俺と同じ栄誉を得るのだ」と言った。
トロイア兵はそれを聞くと一斉に大アイアースとメネラーオスに向かっていった。

アウトメドーンはヘクトールが追いかけてこないと知ると船団を目指して走っていたのをやめ、もう一度戦場へ引き返すことにした。
片手だけで二頭の神馬を操っていたが、槍で敵を倒すことは出来ないでいた。
それをみた仲間のアルキメドーンが助けに入った。アキレウスの戦車はアルキメドーンが御し、アウトメドーンが降りて戦っているところに、神馬を得ようとヘクトールとアイネイアースが近づいてきたので、パトロクロスを守って戦っている仲間達に助けを求めた。
アキレウスの神馬が簡単に手に入るものではないと知ると、ヘクトールとアイネイアースは再びパトロクロスの死体を取る戦いに戻っていった。

ギリシャ軍はトロイア軍の新たな攻撃に追いまくられ、これ以上は頑張れそうになかった。
「足のはやいアンティコロスを探して、アキレウスに知らせてくる。俺が行っている間、パトロクロスを頼むぞ」メネラーオスはそう言い、アンティコロスに伝えると戻ってきた。
大アイアースは「アキレウスが来るまでは持ちこたえられん!お前とメーリオネースでパトロクロスを担げ!俺たちがトロイア軍の囲みを破って道を切り開き、敵軍を押さえやる」と叫んだ。
そうしてなんとか一歩一歩歩んでいったが、塹壕と防壁の見えてくるあたりまできたときには、敵軍にほとんど圧倒されそうになっていた。

◆◆◆


13.出陣のしたく

アンティコロスがアキレウスのもとに行き着くと、彼は心配げに小屋の外で待っていた。
アンティコロスが泣きながら息を切らせて駆けつけてきたのをみると、アキレウスの心臓は恐怖で締め付けられた。
「私の口から伝えるのはなんと辛いことか!パトロクロスが戦死しました。ヘクトールに討ち取られたのです。ヘクトールはパトロクロスから剥ぎ取ったあなたの鎧兜を身につけ、パトロクロスの死体も手に入れると言っています。ギリシャ軍は必死に死体を守っていますが、それも時間の問題です!」
アキレウスは両手で顔を覆い地面に身を投げ出すと悲しみに身もだえしてのたうち、髪の毛をかきむしった。
心のそこから突き上げてくる悲しみに、慟哭する息子の声を聞きつけて、母神テティスが海面に浮かび上がり、息子のそばに現われた。
「息子よ、お前は何故泣いているのですか?私がお前の為にゼウスにお願いしたとおり、トロイア軍に勝利をお与え下さっているではありませんか」
アキレウスは地面から顔をあげると、
「母上、主神ゼウスがあなたの願いを聞いてくださったからといって、私がどうしてそれを喜べましょうか?私が誰よりも尊敬し、自分の命よりも愛していたパトロクロスが死んだのです。ヘクトールが殺して、私の鎧兜を身につけ、自分の手柄と自慢しているのです。母上、私はもはや、パトロクロスの仇を討ち、ヘクトールを殺す以外生きる意味はありません」と嘆いた。
母神は愛しい息子の髪を撫でた。
「私は私の力が一番必要なときに、パトロクロスのそばに居てやれなかった。今日の悲しみはもとはといえばアガメムノーンとの仲たがいが生んだものだ。今から私は戦闘に出ます。そして神々がお望みのときにはいつでもその死の定めを受けるでしょう」
テティスは息子の決心を聞くと、
「仕方ありません。お前の思うとおりになさい。でも、鎧兜がヘクトールのものになってしまっているなら、今日は止めなさい。明日、私が新しいものを持ってきてあげましょう」
アキレウスは防壁の上に立ってギリシャ軍を励ますために大声を上げた。
一瞬、戦闘は止み、トロイア軍が見上げると、夕日を背にしたアキレウスが居た。
トロイア軍は恐怖に捕らわれ、徐々に引き下がっていった。
ヘクトールもまたパトロクロスの死体を諦めたので、ギリシャ軍はパトロクロスを野営陣地に運び込むことが出来たのだった。
アキレウスは友の死体に身を投げてむせび泣いた。

少し離れた平原ではトロイア軍が明日の戦闘をどうするか議論していた。
ポリュダマースが口を開いていった。
「今すぐトロイア城内に引き返し、城壁を守る準備をしましょう。明日は必ずアキレウスが出てくる。それも徹底的に情け容赦なくパトロクロスの仇を討つために!」
するとヘクトールが腹を立てていった。
「何を言っているんだ。アキレウスが戦闘に加わっても俺があいつを迎え討つ!明日もまた船団に攻撃をかけるんだ」
トロイア軍将兵のほとんどがヘクトールに賛成した。

ミュルミドーン人たちがパトロクロスの死体を洗い清めていた。
「パトロクロスよ、俺が明日ヘクトールの首を持ってきてやる。それまではお前を葬らずにここに寝かせておくぞ。長くは待たせない。約束する」
アキレウスはそういうと、その晩は一睡もせずにパトロクロスのそばに居た。

頂を雪で覆われたオリュムポスの山上ではテティスがヘーパイトスの館を訪ねて、アキレウスの為に新しい鎧兜を造ってくれるように頼んでいた。
そして暁の光が空を染める頃、パトロクロスの遺骸を抱くようにして横になっていたアキレウスを起こすと、
「息子よ」と言った。
「お前が嘆き悲しんでも、ゼウスの意思によってパトロクロスは戦死したのですから蘇らせることはできないのです。さぁ、この新しい鎧兜をつけて、勇気を奮い起こしなさい。お前は今日、大変な手柄を立てることでしょう」
そういうと女神は姿を消した。
アキレウスはもう一度パトロクロスに目をやってから小屋を出ると、ギリシャ軍の将兵たちに広場に集まるように呼びかけた。
アガメムノーンのためには二度と武器をとらないと固く誓った彼が何を言い出すのかと、オデュッセウスもディオメーデースもやってきた。
最後にアガメムノーンがゆっくり歩んできた。
「アガメムノーンよ、私はあのリュルネーソスを攻め落としたとき、ブリーセーイスが居なければよかったと思っている。そうしれば彼女をめぐって我々が仲たがいすることもなく、ギリシャ軍に多くの悲しみをもたらすこともなかっただろう。しかし、もうそれは済んでしまったことだ。私は再び戦闘に出る。だから私がトロイア兵をひとりでも逃さぬように、早く戦闘命令を出して欲しい」
アキレウスがそういうと、ギリシャ兵は一斉に歓呼の声をあげた。
アガメムノーンはアキレウスに応えるために立ち上がったが、兵士達の歓呼がなかなか止まないことに苛立ちながらも、静かに言った。
「戦士たちよ、お前達はよく私がアキレウスと仲たがいしたせいで自分達が迷惑を被ったとわしを責めたが、こういうことはすべて神々の意志からでているのであって、わしの責任ではないのだ。しかし、アキレウスには償いをしよう。二日前にオデュッセウスを通じて約束したものを今すぐお前の船団に届けさせよう」
しかし、アキレウスはそんなものどうでもいいというように手をふると、
「大王よ、贈り物をするなりなんなり、好きなようにしたらいい。私はこんな詰まらぬことを言い合っているより、早くやらねばならぬことがあるのだ。出陣の命令を出してくれ」と言った。
アガメムノーンはアキレウスが自分の好意に少しも敬意を表しないことにまたしても腹を立てたが、そのときオデュッセウスが立ち上がった。
「アキレウスよ、お前の気持もわかるが、もうすこし辛抱してくれ。我々は出陣する前に御馳走を食べて英気を養い、勇気を奮い起こさねば成らぬ。その間に大王がお前のために用意した贈り物の準備をしてもらおうじゃないか。そうすれば最高指揮官がお前に対してどんなに立派な償いをしたか我々にもわかるし、お前も自分の財産になるものを見ることが出来よう。そして、お前達の仲直りのしるしに大王から手渡してもらい、皆には御馳走を振舞っていただこうじゃないか」
「オデュッセウスの言うとおりにしよう。アキレウスよ、もう少し我慢してくれ。そしてわしの贈り物を受け取り、神に生贄を捧げてから一緒に食事しよう」
アガメムノーンは腹立たしいのを隠し、作り笑いをしてみせた。
しかし、アキレウスは
「王よ、パトロクロスがヘクトールに討ち取られたというのに、貴方は私に飲み食いしろと言うのか。私の頭の中は今、死と復讐のことだけでいっぱいなのだ。パトロクロスは身体を切りさいなまれ骸となって横たわっている。彼の仇を討つまで私は絶対飲み食いなどせぬ!」と叫んだ。
オデュッセウスは「アキレウスよ、味方の戦死者に対しては、胃袋でなく心で追悼するのだ。戦闘で戦死者が出るたびに飲み食いを止めていたら身体がいくつあっても足りなくなる。だから追悼は心でして、同時にたらふく食うんだ。身体を強くして戦死した仲間の仇を確実に討つために!」と諭した。
アキレウスはそれ以上反論せずに待つことにした。
アガメムノーンからの贈り物が広場に運ばれ、ブリーセーイスが連れてこられた。
アガメムノーンの神への祈りが終わると、アキレウスは
「さぁ仲間達よ、これ以上ぐずぐずせずにさっさと食事したまえ、早く出陣できるようにな!」
そういうと贈り物には目もくれずに、自分の小屋へ戻っていった。

◆◆◆ 


14.大虐殺

ギリシャ軍の将兵は飲みかつたらふく喰らっていたが、アキレウスだけは「まだ弔いが済んでいない」と何も口にしなかった。
養育係だったポイニクス老も慰めてはいたが、
「放っておいてくれ。食事のときはいつもパトロニクスが居た。その彼はいま、死体となってそこに横たわっているんだ。あなたは私にたった独りで食事をせよと言うのか?」と再び顔を両手で覆い、
「俺はこんなに悲しい思いをすることは二度と無いだろう。たとえ故郷から父王の訃報が届いても、息子が死んだと知らされても、こんなに悲しむことはないのだ。俺は俺の運命によって、トロイアから生きて還ることは無いが、すくなくともパトロクロスよ、お前だけは故郷に帰り、父王と息子に俺の最後を伝えてくれるはずだったんだ。」と、また身体を投げ出して泣いた。

しばらくすると、野営陣地のそこここから武器の触れ合う音と、馬の嘶き、そして戦士たちの雄たけびが聞こえてきた。
アキレウスはヘーパイトスが造ってくれた鎧兜に身を固めた。
神々が父王に贈った槍を手にとると、アウトメドーンが手綱をとる戦車に飛び乗り、主を乗せて喜ぶ二頭の神馬を見下ろしていたが、
「俺はパトロクロスの仇を討ってトロイアに戦いの苦しみをイヤというほど味わわせるまで、戦いを止めはしない。クサントスとバリオス、今日の戦闘が終わったら必ず俺を無事に連れ戻せ。パトロクロスを置き去りにしたように、俺の死体を平原に置き去りにしてはならんぞ!」
そうしてアキレウスは大声をあげると戦車を進ませた。
そのすぐ後ろからミュルミドーン人とギリシャ全軍がトロイア軍目指して押し寄せていった。

今日がティティスとの約束を果たす日だったゼウスは、戦争に加わりたがっている神々の参戦を許可した。
女王ヘラとアテーナー、ヘーパイトスはギリシャ軍に、アポローンとアプロディーテー、軍神アレースはトロイア軍に味方しようと地上に下っていった。

トロイア軍ではパトロクロスから奪ったアキレウスの鎧兜を身に着けたヘクトールが将兵らを励ましていたが、アキレウスが近づいてくるのを見ると隊列の後ろへ引き下がった。
アキレウスが再び戦闘に加わった理由が自分にあると知っていたからだった。
「俺のあとに続けっ!」アキレウスは戦車からとびおり、トロイア軍の将兵を次々になぎ倒していった。
激烈な戦闘の中でアキレウスが捜し求めていたのはヘクトールだった。
ヘクトールは用心してアキレウスから遠ざかっていたが、異母弟のポリュドーロスがアキレウスに倒されると、その用心を投げ捨てた。
アキレウスはヘクトールが身に着けている鎧兜を見ると怒りが吹き上げてきた。
「ヘクトール!もっと近くへ来い!パトロクロスの仇を討ってやる。」
「俺がお前を恐れていると思うな!」ヘクトールが投げた槍はアテーナーの息吹によって横へそれた。
アキレウスも叫び声をあげてヘクトールを槍でついたがアポローンが濃い霧を起こしたので見失ってしまった。
ギリシャ軍の猛攻にトロイア軍は敗走し始めた。
スカマンドロスの川はトロイア軍の死骸と投げ捨てられた武器でいっぱいになった。
アキレウスは命乞いをするトロイア軍将兵に情け容赦しなかった。
「なんでこの俺がお前の命を助けなければならん?パトロクロスは死んだんだ。そしてこの俺も死ぬ運命にある!」
アキレウスは殺戮を絶え間なく繰り返し、ヘクトールを捜し求めた。

  ◆◆◆


15.復讐

プリアモス王は追撃してくるギリシャ軍からトロイアの将兵が敗走してくるのをスカイア門の望楼から見、門を開けるように門番に命じた。
生きてスカマンドロス川を渡れた者たちは場内に逃げ込んだ。
ヘクトールは迷っていた。
すると望楼の上から父王が叫んだ。
「息子よ!場内に入れ。長男のお前はわしの跡を継ぎトロイアの王となるべき身じゃ。わしは今日の戦いで2人の息子を失った。同じ一日のうちに3人も息子を失う悲しみを味わいとうはない」
母の王妃ヘカベーもまた懇願した。
ヘクトールは迫ってくるアキレウスの姿に尚も迷っていた。
「俺が今場内に逃げ込んだら、俺は卑怯者になるだろう。そしてたとえ俺が素手のままでヤツの前に立ったとしても、ヤツは俺を決して許すまい。ならば戦うまでだ」そう思うと走り出した。
アキレウスは部下のものたちに「ヘクトールは俺ひとりの相手だ、お前達手を出すな!」と叫ぶとヘクトールを追いかけた。
「さぁ、プリアモスの息子よ、パトロクロスの償いをせねばならん時が来たのだ。お前の勇気をみせてみろ」
アキレウスは槍を投げつけたが、ヘクトールの頭上を越えて地面に突き刺さった。
「俺の番だな!」とヘクトールが投げた槍はアキレウスの楯の真ん中に当たったが、ヘーパイトスの造った楯を突き通すことはできなかった。
ヘクトールは太刀を抜き、アキレウスは槍を拾って相対峙した。

次の一撃で勝負はつく。

アキレウスはヘクトールの身に着けている鎧兜の弱点を良く知っていた。
胸甲と兜の頬あてとの隙間がそうだった。
アキレウスが繰り出した槍は過たずそこを突いた。
急速に衰えていく意識の中、ヘクトールは「アキレウス、お願いだから身代金をとって、俺の死体をトロイア軍に引渡し、俺に相応しい火葬をさせてくれ、ハゲタカの餌食にしないでほしい」と、弱々しく嘆願したが、
アキレウスは「お前は俺に情けを乞うのか。パトロクロスの首を城壁の上に晒そうとしたお前が。お前の父と母は、二度とお前の顔を見ることはないのだ!」と怒鳴った。
アキレウスはヘクトールの死体から鎧兜を剥ぎ取った。
なすすべとてなく城壁の上から見ていたトロイア人たちは彼等の最大の守りが失われたのを嘆き悲しんだ。
勝ち誇ったギリシャ軍の中にはこのまま一気にトロイア城市を攻め落とすべきだという者もあった。
アキレウスも当初はそれに賛成だったが、「いや、今日の目的は果たした。パトロクロスをあのまま放ってはおけないからな。さぁ、引き返そう」そういうと、ヘクトールの踵から足首に孔をあけ、紐で両足をしばると戦車の後ろに結びつけた。
戦車に飛び乗ったアキレウスはアウトメドーンから手綱と鞭をとると、クサントスとバリウスを海岸へ向けて走らせた。

ヘクトールの死体はその黒髪を土ぼこりの中に叩きつけられながらトロイアの広い平原をずっと戦車に引かれていった。

  ◆◆◆
 


16.葬礼

野営陣地に還ったギリシャ軍の将兵たちはこの日の大勝利を祝ったが、アキレウスはパトロクロスの遺骸を海岸にすえつけさせた。
ミュルミドーン人たちはその周りを戦車で三周し、パトロクロスに敬意を表し、アキレウスはぼろぼろになったヘクトールの死体をパトロクロスの足元に放り投げた。
「パトロクロスよ、俺は約束どおりヘクトールの死体を持ってきた。仇は討ったぞ。安心して眠れ」葬礼とその日の勝利の祝宴を終え、アキレウスは海岸へ独り降りていくと、暗闇の中で再び泣いた。

朝になって、ギリシャ軍は海の近くに火葬壇を造った。
ミュルミドーン人たちがパトロクロスの遺骸を運び、その戦友たちとアキレウスは哀悼のために自分の髪を切って彼の寝棺の上に置いた。
そしてパトロクロスの黄泉路が恙無いように足の速い四頭の馬と、パトロクロスが飼っていた犬2匹、そしてトロイアの捕虜の中から12人の貴族の子弟を殉死させ、祭壇に投げ入れた。
夕暮れ近く、火葬壇に火が点けられた。
暁が見える頃、炎は消え始め、アキレウスは疲れきってやっと眠りについた。
朝になり、ギリシャの王や王子たちはまだくすぶっている灰をブドウ酒で消し、パトロクロスの遺骨を拾い集め、黄金の壷に納めた。
アキレウスはそれを亜麻布に包むと、
「俺の骨を一緒に納める日がくるまで、ここに置いておこう。パトロクロスのために墓を築かなけりゃならぬが、高くすることはない。俺の灰を一緒にするときまでの目印になればいいのだ。俺が死んでパトロクロスとともになるときがきたら、お前達、どうかその墓土を高く、広く盛り上げてくれ」そういうと
「俺の友のために葬礼競技を行わないというのは、ふさわしくない」と言って、アキレウスは競争用のコースを作らせると、優勝者に与える立派な商品を船団から運び込んだ。
葬礼競技は一日中続き、夕方になると皆はそれぞれの小屋に戻った。
しかし、アキレウスは悲しみのために一晩中眠れなかった。朝になり、小屋の向こう側にまだヘクトールの死体が横たわったままになているのをみると、またしても憎しみと悲しみと怒りがこみ上げ、死体をもう一度戦車に結びつけるとパトロクロスの墓土の周りを三度引きずり回した。
そのあと死体は放ったらかしにしたまま、やっと眠りについた。
彼の怒りは幾分収まっても、心の慰めにはならず、彼は10日と一日、毎朝同じことを繰り返すのだった。

  ◆◆◆


17.身代金

パトロクロスの復讐が行われてから12日目、プリアモス王は身代金を持って、単身アキレウスのもとへいき、息子ヘクトールの遺骸を貰い受けてこようと思い立った。
プリアモス王が王妃へそういうと、王妃ヘカベーは
「いけません。ヘクトールの弔いはこの王宮の中でいたしましょう。私達の息子を何人も殺したアキレウスに、やつらの父親も殺してやったなどという自慢をされるのは真っ平です」と押しとどめた。
しかし、プリアモス王は
「わしの心はもう決まっておる。もしもアキレウスがわしを殺しても、そのときはそれでいいさ。愛しい息子の顔を見れるのなら、喜んで死ぬまでだ。」
それだけ言うと王は王妃の懇願に耳をかさず、莫大な財宝を荷車に積めと生き残っている息子たちに命じた。
息子たちが父王に文句を言おうとすると、プリアモスは
「ろくでなしども!わしはお前達がヘクトールのかわりに討ち取られればよかったと思っておるのだ。わしの息子たちの中で出来の良い者たちは、皆戦死してしまった。勇敢なケブリオネース、末のポリュドーロス、リュカーオーン、それにヘクトールだ。それなのに、ろくに戦えないお前達はまだ生きながらえておる。せめて言いつけられたことはさっさとやらんか。」と怒鳴った。
息子たちは、父は悲しみのあまり正気を失ったのだろうとは思ったが、言いつけにそむくことはできず、駆け出していった。
王は伝令のイーダイオスを呼ぶと、荷車を御して先に行けと命じた。
王妃は黄金の杯にブドウ酒を満たすと、「父神ゼウスさまにあなた方が無事にお戻りなされますように」と祈った。

二人が足の速い神々の使者ヘルメースの加護を受け、無事にアキレウスの船団までたどり着くと、王は戦車を降り、アキレウスの小屋に入っていった。
王は誰にも引き止められないうちにとアキレウスの前にまっすぐ歩いていくと、跪き、その膝にとりすがると両手を取って口付けした。
アキレウスは突然のことに驚いて王を見つめた。
「偉大なアキレウスよ、あなたの父上ペーレウス王の名のもとに私に情けをくださらんか。あなたの父上はそのかわいい息子が戦闘に勝って懐に戻ってくるという希望がありますが、私にはもうありません。せめて私がもういちど息子の顔を見、身体に触れることができるならば私の残された人生の慰めになることでしょう。あなたの父上と母上の女神テティスの名において、偉大なアキレウスよ、どうぞヘクトールの死体を、この哀れな父親にお返しください。そのために私はあなたに沢山の身代金を持って参りました」
プリアモス王の両頬には涙が零れ落ち、嗚咽して言葉が途切れたが、
「どうぞ、お願いですから、この年寄りをかわいそうに思ってください。私の息子を何人も殺した相手の前にこうやって身をかがめ、跪かなければならない年寄りを哀れに思ってください。」と続けた。
アキレウスは老王の言葉によって涙をうかべ、父ペーレウスが自分の還ってくるのを虚しく待っているのだろうと思った。

私は二度と故郷の土を踏むことはないのだ。父にも息子にも会うことは無い。そしてパトロクロスにも。

二人は一緒に泣き続けた。
アキレウスは故郷の父と今は亡き友を思って、足元の老王は息子ヘクトールのことを思って。

「プリアモス王よ、私に会うため、単身敵地に赴いたあなたの勇気に敬意を表します。さぁ、お立ちください、そしてこの椅子に。もう悲しみは忘れましょう。いくら涙を流しても、それで死者が蘇ってくることはないのですから」
しかし、老王は首をふってこういった。
「ペーレウス王の息子よ、ヘクトールが敵陣にあって土ぼこりの中に横たわったままでいるというのに、父がゆっくりしてはいられません。どうぞ息子を返して、そして顔を見せてください。国王の息子にふさわしい代価、身代金を納めてください。」
「王よ、私にひどい言葉をつかって怒らせないでほしい。ヘクトールの死体はちゃんとお返しします。あなたが今、私の小屋に無事たどり着けたことは、きっと神々の加護と意志があったからに違いないのですから」
アキレウスはアウトメドーンい付いてくるように命じると、まず小屋の外で待っていた伝令のイーダイオスに小屋へ入って主君のプリアモス王と休息するように言い、アウトメドーンには身代金を小屋へ入れろと言った。
さらに捕虜の女たちに命じて、ヘクトールの死体をプリアモス王に見られない場所に移してから洗い清め、下着と衣服で包み、荷車の上に横たえた。
「パトロクロスよ、ヘクトールの死体をその父親に返したからといって俺を怒らないでくれ。いいや、お前ならきっと分かってくれるだろうが」
その仕事が済むと、アキレウスは再び老王のもとへ戻ると、一緒に夕餉をとり、ヘクトールの葬儀のために、12日間戦闘を控えると老王に約束した。
プリアモス王は他のギリシャ将兵に知られまいと、まだ朝が明け切らないうちにアキレウスの小屋を出てトロイア城市に戻っていった。

トロイアでは9日の間ヘクトールの哀悼が続けられた。
10日目の夜明け、ヘクトールを高く積み上げた火葬壇に火が点けられ、そうして11日目の朝ヘクトールの灰は黄金の壷に納められ高い墓土が築かれたのだった。

  ◆◆◆


エピローグ

ヘクトールが戦士してのちも戦争は引き続いていた。
もっとも優れた戦士を失ったトロイア軍は守勢に回っていたが、ついにアキレウスの上にも、予言されていた運命がふりかかってきたのだった。

アキレウスはギリシャ軍を指揮し、スカイア門の近くで戦っていたときだった。
いつものことながら、危険にまともにぶつかるのが嫌いなパリスが隠れていたのだった。
アキレウスが矢の届く距離に近づいたのを確かめると、パリスはアポローン神に祈りつつ矢を放った。
その矢は過たず、本当ならば相対することも思い及ばぬ相手のアキレウスを即死させたのだった。
ギリシャ軍最大にして最高の戦士が、トロイア戦争の根源になったその者に討ち取られたのだ。
その後、激しい戦闘のあとアイアースとオデュッセウスがアキレウスの死体をトロイア軍から奪還して船団に戻り、17日間にわったって哀悼した。
そして彼の遺骨はヘーパイトスが母神テティスに与えた黄金の壷に入れられ、パトロクロスの遺骨とともに墓土の中に葬られた。
アキレウスの葬礼競技の際に、女神テティスは神の手になる息子の武具はギリシャ軍の中でもっとも勇敢な者にあげようといった。
オデュッセウスとアイアースはアキレウスの死体を救ってきたのは自分達だから二人に賜るべきだと言ったが、アガメムノーンはオデュッセウスに追従して彼独りに与えたため、がっかりして憤懣やるかたなかったアイアースはついに気が狂って自殺してしまった。

アキレウスを討ち取ったと自慢していたパリスは、ギリシャ軍の射手が放った矢傷がもとで死んだ。
まったくの孤独になったヘレネーはパリスの弟デーイポボスの家に居た。
ミュルミドーン人たちは指揮官のアキレウスとパトロクロスが戦死してしまたので、アガメムノーンはアキレウスの遺児ネオプトレモスを呼び寄せた。
息子はまだほんの少年だったが、すでに父親譲りの戦闘のコツを身に着けていたので、ミュルミドーン人たちも喜んで彼を指揮官として仰いだ。
オデュッセウスはアガメムノーンがくれたアキレウスの遺品である武具をネオプトレモスに譲った。

それでもトロイアは落ちなかった。
ギリシャ勢は、力ずくでは埒が明かないと、策略をめぐらすことにした。

ギリシャ軍は中ががらんどうの巨大な木馬を作った。
その木馬の胴体にはとりわけ勇敢な戦士50人が潜んでいた。
メネラーオス、デッオメーデース、ステネロス、オデュッセウス、そしてネオプトレモスも混じっていた。
そしてアガメムノーン率いるギリシャ軍は船団を水際まで引き出し、野営陣地の小屋を焼き払い、ギリシャ帰るとみせかけて船出した。
渚の上にはその巨大な木馬だけが残っていた。
しかし、ギリシャ軍はトロイアの海岸から少し離れたテネドス島付近に待機していたのだった。

長い年月の包囲が解けて、トロイアが開放されたことに喜んだトロイア人たちは、海岸の木馬をいぶかしんで見ていた。
「神々に捧げたものだろうか」「いいや、罠かもしれん」
トロイア人たちは口々に言い合ったが、プリアモス王は
「これはギリシャ軍が神に捧げたものだ。傷つけてはならんぞ、城内に運び込め」と言った。
その方針に反対のものもいたが、王は聞き入れなかった。
神々への供え物として木馬は花々で飾られ、人々は終戦の祝いに浮かれて騒いだ。
その晩、遅く、ギリシャ軍の戦士たちは木馬の横腹にある秘密の扉をあけ飛び出した。
アガメムノーンの船団も引き返していた。
不意打ちをくらったトロイア軍に抗うすべはなく、またたくまに城市は落ちた。
プリアモス王は王宮の中で殺され、デーイポボスはオデュッセウスとメネラーオスに討たれた。
ヘクトールの幼い息子アステュアナクスは城壁の上から投げ落とされた。
ヘクトールに次ぐ戦士といわれたアイネイアースだけは城を抜け出して逃げ延びた。
さらに王妃ヘカベーは王や子供たちのあとを自ら追い、ヘクトールの妻アンドロマケーはネオプトレモスの奴隷となってミュルミドーンに連れて行かれた。
アキレウスの養育係ポイニクスは帰郷の途中で死んだ。
ヘレネーはデーイポボスの家にいるところをメネラーオスの手で見つけられた。
ヘレネーは覚悟を決めていたが、彼女は今尚世界一の美女だったのでメネラーオスは彼女を許しスパルタへ連れて帰り、末永く幸せに暮らした。

さてしかし、ギリシャ軍の将兵たちには未だ試練が残っていた。
ロクリスのアイアースは帰国途中で溺死、ディオメーデースは故郷に帰ると自分の王国は他人に奪われていたが、別の王国を手に入れた。
アガムノーンは大変な財宝とプリアモス王の娘カッサンドラーを伴ってミュケーナイに帰ったが、正妻のクリュタイムネーストラーと、従妹のアイギストスの手に掛かってッサンドラーと伴に暗殺されてしまった。
イードメネウスもまたようやく故郷に帰り着いてみると、彼の王国は強奪者に支配されていた。
オデュッセウスも、最後には故郷イタケーに還れたが、それまでの20年は数々の試練と冒険をしなければならなかった。
老ネストールは神々に愛されていたので短期間で故郷ピュロスに帰還でき、息子たちにかこまれ人々の尊敬を受けて長生きしたが、トロイアで戦死した長男アンティロコスをその地に遺したままだったので悔やみつづけていた。

長い年月をかけたギリシャ軍とトロイア軍の戦争はこうして終わったが双方が得たものは悲しみと後悔だけだった。

◆◆◆了 ◆◆◆